Description
ものごとをそのままに、「あるがまま」見ることが幸せにつながります。
そこに自分自身の考えを何もつけ足さないとき、 安らかさや平和が存在するのです。
さて・・・私たちは日々、どれだけものごとをあるがままに、まっさらな状態で見ることができているでしょうか?
あるいは、自分独自のでっちあげである妄想劇場にハマって、自分自身を怯えさせてしまっているでしょうか?
まっさらに見るということは、「あるがまま」に受けとめることです。それは、自分勝手な価値判断やでっちあげをせずに「素のままで見る」ということです。それをただそのままにしておくのです。
「そんなこと、あたりまえじゃないですか? 」と言われそうですが ・・・ あるがままに、でっちあげなしでものごとを見ている人はあまりいません。
それをそのままにして、自分の空想や妄想にひっぱりこまないでいる人は少ないのです。無意識のうちに、私たちはものごとを自分の妄想劇場へとひっぱりこんでしまっています。
たとえば、「今朝、パートナーがとても不機嫌だった。私が何か気に入らないことをしてしまったのだろうか?」、あるいは「さっき同僚に話しかけたのに、無視されてしまった。私は嫌われているのだろうか?」 ・・・ これらはすでに、勝手な「妄想(でっちあげ)」です。
「パートナーの不機嫌」も「私が気に入らないことをした」というのも本当のことではないし、「同僚に無視された」「私は嫌われている」というのも自分が作り出したストーリーにすぎません。
まっさらな見方というのはこんな感じです。「今朝、パートナーはいつもと違うように私には感じられた」、とうことであり、「さっき同僚に話しかけたが、私には彼女の答えは聞こえなかった」ということです。違いがわかるでしょうか?
後者は、そのときに起こった事実のみであり、自分の推測や憶測・でっちあげは含まれていないのです。
私たちにとってものごとを「見ること」ということは、「妄想すること(勝手なでっちあげをすること)」とイコールになってしまっているようです。
なにかを目にするたびに、自分にとっての意味や価値判断を勝手にくっつけて、自分独自のストーリーをでっちあげてしまうことで、妄想劇場が始まってしまいます。
その妄想劇場はたいてい、見捨てられたり、攻撃されたり、拒絶されたり、という悲しいストーリー展開が待ち構えています。
幸せを感じられない人、喜びや安らぎの感覚が乏しい人、不安に支配されている人は、決まって妄想劇場の住人であり、悲しいストーリーの主人公になるのが得意なのです。
何かを目にしようものなら、そこから怒濤のように自分のでっちあげがはじまり、そのストーリー自体に自らが呑み込まれてしまうのです。
ひとつでっちあげをしたら、そこからまた別の架空のストーリーが生まれ、さらにそこからも・・・というように、アタマのなかは事実ではないストーリーでいっぱいになってしまいます。
そうなると、最初に自分が目にしたものごとから、とんでもなくかけ離れたストーリーが捏造されてしまうのです。
そして、その捏造したストーリーについて悩みはじめます。なぜなら、でっちあげ劇場はいつも悲しくつらいストーリーが展開し、