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ある人がいってたのだが、「きれい」と「美しい」は違うそうだ。
きれいは表面上見た目だけであって、美しいは内面的なものをいうのだそうだ。
たしかに「わあーきれい!」では内面まで判断していないような気がする。
しかしこの「きれい」や「汚い」についても勝手な判断を加えているのが人間なのだと思う。
たとえば、一度オシッコを入れられたグラスは、どんなにたくさんの洗剤を使って洗われたうえに煮沸を施しても、オシッコを入れられたことを知ってしまうとなかなか気持ちよくそれにビールをついで飲めない。というか拒否してしまう。
たとえそれが完全滅菌され電子顕微鏡で菌が見受けられないほどきれいでもだ。
反面、自分の手にオシッコがかかっても石けんで洗えば「煮沸」をしなくても、その手を使っておにぎりをつかんで食べることができる。
電子顕微鏡的には雑菌満載の手でも自分の手はきれいと思っている。
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目の前にフランス料理のコースが運ばれてきた。
最後のメインディッシュは牛フィレステーキだ。
大きめの真っ白いお皿にフィレステーキ、ニンジンのグラッセ、皮付きポテトが盛られている。
ステーキの上にはきつね色に焼いたニンニクの薄切りが載せられ、まわりには煮詰められたソースがあしらわれ、緑濃いクレソンがいっそうメインディッシュを引き立てている。
それは実にきれいで食欲をそそるのだ。
さて、ステーキにナイフを入れソースを絡めニンニクとともに口に頬張る。このまま食べてしまえば美味しい。
でもちょっと待っていただきたい。
口に頬張ったステーキとニンニクを20回ほど噛んで、そのままきれいなお皿のあいた場所に口から出して置いてみる。
これはきれい?
それとも汚い?
もう一度それを頬張れる?
もし「汚い」と思うのであれば、汚いものを口にしてということなのだろうか?
違います。きれいと思って、美味しそうと思ってお口に入れたんだから。
だのに20回程度のそしゃくでそれは汚くなってしまう。
たとえ自分の口のなかから出たものであっても・・・。
目で見て「汚い」と脳に教えてやると、もう融通はきかなくなって「生ゴミ」以外の何ものでもなくなるのだ。
あえて正しい判断をするならば、皿の上に出したものは咀嚼途中のご馳走であって、決して「生ゴミ」なんぞではない。もう一度口にしてもそれは人間の生命を維持してくれる大切な栄養源になりうるのだ。
それにしてもきれいなものを汚いと思い、汚くても自分のものならこだわらず、かといって自分のものでも汚く感じてしまうこともある。
この違いはなんだろう。
正しい判断とはいったいどういうことなのだろう。
合掌