Description
むかし、中井貴一が主演した『ビルマの竪琴』という映画を見た。
ビルマ(現在のミャンマー)で戦死していった戦友を供養するため、現地で出家した水島上等兵が日本に帰還する部隊の戦友たちにビルマの竪琴で『埴生の宿』を奏でるという内容だと記憶している。
そのなかでのある場面を印象的に覚えているのだ。
その場面は正確ではないと思うが、垣根越しに日本兵が托鉢を持ったビルマの僧にお布施(お金か物か定かではないが)を鉢に入れたときに、日本兵が「この国の坊主はお礼を言わぬ」という主旨のセリフがあった。
托鉢は本来、生産活動を行わない僧が毎日街を歩いて信者から米やお金などの生活必需品を鉢の中に入れてもらうことだ。
とくに現在でも東南アジアの上座部仏教とよばれる仏教圏では日常的に行われている。
この托鉢の鉢は「捨て鉢」であり、信者など人々は「捨てさせてもらっている」のだ。
僧の方は「捨てさせてあげている」ので、お礼を言うのは僧ではなく鉢に物を入れる方なのだ。
僧に供養することが最高の功徳と考えられているのだから「捨てさせてもらう」ことによって幸せな心になれるのである。
僧にとって生活必需品とはいえ、鉢の中身については何らのこだわりも執着もない。
だから、ときにはお金の上に汁物が入れられる場合も少なくない。
きれいや汚いの判断もしなければ、ただありのままに受け入れるのだ。「捨て鉢」なのだから。
映画「ビルマの竪琴」のなかで、日本兵が「この国の坊主はお礼を言わぬ」というセリフがあったのも、当然といえば当然なのだ。
こう考えてみたらどうだろう。
私たちは週に何回かゴミ収集のサービスを受けている。
もちろんゴミだからそれに執着をしていない。というよりむしろ早く手放したいと思っている。
ゴミ収集のパッカー車に乗ってくる人には「ご苦労さま。ありがとう。」という。
礼をいうのは捨てた私たちの方だ。
一概に托鉢とゴミ収集を同列に語るのも問題はあるが、しかし、心の持ちようは信者の方は「自分のもの」という執着をはなれて「捨てる」。僧は捨てられるものに執着せず、ありのまま、あるがままに受け入れて生活の糧にするのだ。
私はいつも法事などでよく話すのだ。
「しっかり坊主に捨てて下さい!」
「包んだお布施の割りにはお経が短いなどと言わないように!」
合掌