Description
私のいる村は旧高野街道の高野七口とよばれるうちの一つで、大門にいたる紀ノ川の入り口に当たり、「大門四里」の石標も残っています。
当地は重要な宿場町で、大和街道と高野街道の分岐点にあたり、昭和36年頃まで、川の近くにある茶屋町とよばれるところでは市も開かれ、高野参りの巡礼者たちは、旅館や茶店、薬屋で必要な品を買い求め、大門へと向かったのです。この茶屋町を過ぎれば峠までは急坂が続きます。この坂道に沿うように民家はもちろんのこと、お墓もそれぞれの家が自分の畑の近くに建ててます。そんな場所にあるお墓でも、昔は土葬でした。
急坂にあるお墓といえば、こんなことがありました。
お葬式の知らせが入ったお家は地区の一番下の谷沿いにあり、埋葬するお墓は高野山を望める峠とおなじくらいの高さのところにあります。その家とお墓までは標高差でいえば300メートルぐらいはあるでしょうか。そこまで町内会の人が棺をかついでのぼるのです。下に落としてしまわないように棺に2本のロープをかけ上からひっぱりながら男4人ぐらいでかつぎます。途中で何度も休憩し、男たちは場所を入れ替わりながら峠近くの埋葬墓地までかつぎ上げるのです。
何も持たず葬列につく参列者でさえ、何度も休みつつ息も絶え絶えのぼるくらいですから、棺をかつぐ男たちのしんどさはいうまでもありません。峠のお墓についたころにはだれもが精も根も尽き果てているようすでへたり込んでいました。
あの時、私の父親もかなりの年齢になっていたので、導師である父親のおしりを私が押しながら山(お墓)へ行ったことは忘れることができない思い出であります。
山側のあるお家でお葬式が行われたときのことです。
出棺の時間になっても埋葬のためにお墓に穴を掘る「山行き」役が、なかなか帰ってこないのです。普通なら出棺までに掘り終えるのですが、まだ掘れないというのです。当家に指示された墓の場所から岩盤が出たからです。少なくとも棺より一回り大きく、深さは百六十センチも掘る必要があるので、一メートル足らず掘り進んだところで大きな岩盤が現れたと言うのです。
「山行き」は2人だけなので、人力だけで岩盤を割るのはとても無理だということで、発破をしかけることになりました。お墓に発破をしかけて掘るというのは、この土地でもはじめてのことでした。数回の発破で岩盤はなんとか砕くことができたのですが、今度は砕かれた石を出すのが大変です。2人で同時に穴に入ることができないため一人ずつ交代で石を掘りあげなければなりませんでした。また、穴は掘れても、棺を納めたあと掘りあげた砕石を埋め戻すわけにはいきません。土葬ですから当然埋葬は土でなければなりません。そのため今度は墓地内の違う場所から土を持ってこなければならなくなりました。しかも、いま掘っている場所は坂になっているものですから、あまり効率よく作業が進みません。二人の山行きさんにとってみれば、出棺が2時からなのにすでに3時間を経過し、夕暮れ近くになっており、まさに時間との戦いでした。そして結局、埋葬できたのが5時半を過ぎていたのです。
このときほどこの田舎にも早く火葬の時代が来てくれないものかと、切実に思ったことはありませんでした。