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『感想』
「ジョーカーって、結局何だったんだろう」。映画が終わってしばらくの間、私はそんなことを考えていた。
前作の『ジョーカー』を初めて観たとき、心の奥底を乱暴に掻き回されたような気分になった。社会に見捨てられ、誰にも愛されない男が、最終的には自分の狂気に身を委ねていく――そんな物語だった。でも、正直に言えば、その結末が彼にとって一種の「解放」だったのではないかと、少しホッとした自分もいた。あの時のジョーカーは、どこかで私たちの代弁者のように感じられた。現代社会の不条理に耐えかね、ついに反旗を翻す彼の姿が、ある種のカタルシスを提供してくれたのだ。
ところが、今回の『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』では、そんな感情が一変してしまった。再びスクリーンに登場したジョーカー――いや、アーサー・フレックは、前作ほどの勢いを持たず、むしろ戸惑いと苦悩の中にいる。最初は「ん? 何かが違う」と感じた。前回のように、観客を一撃で揺さぶる狂気はどこかに消え、アーサーは再び、ジョーカーという仮面をかぶるべきか、それとも自分自身の弱さを受け入れるべきか、その狭間で揺れ動いていた。
今回登場するレディー・ガガが演じるハーレイ・クインとの関係も、何とも言いがたい微妙なものだ。まるで、誰かが無理やり「ハッピーエンド」を演じさせようとしているかのようだが、この映画で本当に求めているものは、そんな「幸せ」ではない。二人が手を取り合うたびに、その関係性の不安定さが露呈していく。
それにしても、ハーレイ・クインの存在感は圧倒的だった。彼女は、ジョーカー以上に「ジョーカーらしい」とさえ感じられる。狂気と愛情が入り混じった振る舞いで、アーサーをさらなる混乱へと追い込んでいく。彼女との関係は、どこか逃避のようにも見える。前作のジョーカーは孤独を貫いていたが、今回は「愛する人」がいる。その存在が、かえってアーサーの不安定さを際立たせているのだ。だが、彼女が愛しているのはアーサーではなく、ジョーカーというアイコンそのものだということが、ますます明らかになっていく。
一方で、今回の作品にはミュージカル調の演出が加わり、茶番劇のような軽妙さが感じられる。特に法廷のシーンはその典型だ。前作では観客を翻弄し、絶対的な力を大衆を味方につけていたジョーカーが、今作では法廷という舞台で、無力さが際立っている。「え、こんな結末でいいの?」と、思わず不安にさせられるほどだった。
しかし、考えてみると、これこそがジョーカーの「現実」なのだろう。ジョーカーというキャラクターに憧れていた私たち観客も、彼の孤独や弱さを無視していたのかもしれない。彼がどれだけ狂気を演じようとも、その裏には一人の人間、アーサー・フレックが存在する。そして、彼にはジョーカーとして世界を変える力などなく、ただ日常の中で自分の居場所を探し求め続けるだけなのだ。
前作のジョーカーに共感していた私も、今回は別の感情を抱いた。それは「同情」かもしれない。狂気に身を委ね、一度は自分を取り戻したかに見えたアーサーだが、結局は再び迷子になってしまった。彼の物語は、終わることのない迷路のようだ。アーサー自身、何を求めているのか、もはや