Description
脳外科医は手術中に患者の脳に電極を当て、ニューロン間の電気信号のやり取りをスピーカーに流し、電圧の微小な変化を音声に変換して、それを頼りに手術を行います。電極を当てる場所によって「ポンポンポンポン」になったり、「ポン…ポンポン…ポン」になったり、音のテンポが変化しますが、流れる情報の内容によっても神経ネットワークはそれぞれ異なる音を発します。
脳には痛みの受容体がないので、手術中でも患者と話をすることができます。上の有名な騙し絵「若い女性と老婆」の絵を見せ、若い女性と老婆のどちらが見えるか尋ねると、若い女性と答えた時と、老婆が見えたと答えた時では、「ポン」のテンポが異なります。これは、電極を当てた個所のニューロンが独力で知覚の変化を起こしているわけではありません。一つのニューロンは何千という他のニューロンとつながり合い、蜘蛛の巣のようなネットワークを形成しており、何十億というニューロンの協働の結果、音のテンポが変化するのです。観測者が捉える変化は、脳の広大な領域で起こるパターン変化の反映であり、脳内で一方のパターンが他方に勝つ時、見え方が決定されます。
アイスクリーム屋でバニラとチョコのどちらの味にするか迷っている時も、バニラを選ぼうとするニューロンネットワークと、チョコを選ぼうとするネットワークが拮抗しています。それぞれのニューロン群は必ずしも隣りあっているわけではなく、感覚や記憶に関わる領域にその網を広げ、広範囲にまたがるネットワークになって自己を主張し合います。そして、ネットワーク同士のこの主張合戦こそ、私達が悩み、葛藤している状態です。大脳では、こうしたジレンマが日々起きて、意識を生み出しているのです。
眼窩のすぐ上にある眼窩前頭皮質は、体の状態、空腹、緊張、興奮、当惑、渇き、喜びなどを、脳の他の部分に伝える信号の流れを統合していますが、ここを損傷すると肉体の生理的欲求がその時々の外部からの情報に価値を与えることがなくなるため、複数の選択肢から一つを選ぶことができなくなります。スーパーで買い物しようとしても、全ての商品についてそれを買う意義が、身体の欲求と関わりなく理性的に主張されるので、永遠にそれぞれの商品の有用性を比較計算し続ける人工知能のように、具体的な行動に踏み出すことなく立ち往生してしまうのです。美味しそうなものに出すよだれ。値段の高さに汗ばむ手。魚の缶詰で食当たりした記憶が生む背筋の寒け。それらが私達の選択と行動の源です。
人間は理性だけでは決められません。決断には生理状態や感情が不可欠なのです。