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「言語記号の恣意性」という言葉があります。19世紀のスイスの言語学者ソシュールの考えで、言葉とは、それを表す音声・文字(シニフィアン)と、それによって表される意味・概念(シニフィエ)が、合理的な必然性を必要とせずに結び付いて出来ているという考えです。
例えば、「イス」という音声は、「人が座るための台」のことではなく、「食事や仕事や勉強をするための台」のことであってもよく、「ツクエ」という音声は「体を横たえて寝るための台」のことであってもよかったわけですが、たまたま何となく勝手気ままに(恣意的に)現在のような組み合わせになっている、ということです。
この考え自体は、「そりゃそうだね」とすぐに納得できるものだと思います。日本人みんなで、ピーマンのことをナスと呼び、ナスのことをピーマンと呼んだって、みんなでやれば何も怖くはありません。でも、ソシュールが言う「恣意性」はそれだけで終わりではありません。
どこかの星から手も足も腰もないボール型の体の宇宙人が地球へやってきて、日本語を勉強するとします。その時、同じ台状の形をした物体を、イス、ツクエ、ベッドと言い換えていることを知ったら、その宇宙人は「Why,Japanese people⁉」と叫び出すかもしれません。人間は、同質なモノやコトを別々の音声(シニフィアン)で名づけることにより、それぞれを私たちには異なる価値(シニフィエ)を持った存在に見立ててしまいます。そして、その言葉を知らない者には理解不能な独自の現実世界を、言葉で作り出すことが出来るのです。
こうした言葉の恣意性に似た性質を、倫理について説明した人が二五〇〇年前の中国にいました。儒教の祖である孔子です。倫理とは、道徳やモラルに近い意味の言葉で、人間としてしなければならない行動基準のことです。「仁」=【思いやり】と「礼」=【その表現】の結びつきで倫理が出来ていると孔子は言いました。これは、言葉が意味・概念とそれを表す音声・文字で出来ているのに似ています。思いやりを表現する方法はいろいろなので「仁」と「礼」の結びつきは恣意的だし、たくさんの礼儀作法が生まれると、表現される思いやりの種類も増えていってしまいます。
このように倫理は根源的な恣意性を持っているため、人間の心には困ったことが起きてしまいます。「伝染病が流行してるんだから外出を控えるのが思いやり」という考えが生まれる一方、「そんなことしたらいろんなお店が困ってしまうじゃないか」という考えも生まれます。何が正しいか、悩み、惑い、葛藤するのは、私達の心が背負う宿命なのでしょう。