Description
序)パリサイ人の源流
・旧約聖書と新約聖書の間の約 400 年間で登場。
・建て直された神殿に主の栄光が戻って来なかったのは、神の戒めを守ることが徹底されていないからだと考え、律法の研究が始まった。
1)霊的な清潔さを求めて
・レビ記にある儀式的な汚れときよめの規定は、祭司たちのためにあったが、パリサイ人は、これを一般人にまで拡大した。その結果、聖書には書かれていない慣習「昔の人たちの言い伝え」が生み出された。
・霊的な清潔さを求めたパリサイ人には落とし穴があった。多くの脱落者が出て「罪人」として切り捨てられることになった。 →こういう社会状況の中に、イエス様が来られてパリサイ人の実践を無視した「神の国」運動を始めた。パリサイ人と目標が近かっただけに、衝突も激しかった。
2)儀式的きよさ追求の問題点
・「汚れた手でパンを食べる」としても、神の国の到来に問題はない。むしろ儀式的な「手を洗う」ことにこだわると、逆効果になるとイエス様は主張する。
・「コルバン」と宣言すると、両親の介護扶養のために金品を使う必要が免除されるという「抜け道」がつくられていた。
・パリサイ人の実践には「心」が欠落している。神の戒めの目的を考えることなく、コンプリートすることだけに熱心になった。しかし戒めは、人が幸せに生きる道が示されているものである。
3)「儀式的律法」は廃棄されてはいない。
・しばしば、儀式的律法が「廃棄」されたという説教を聞くが、正しくはその目的が「成就」されて、本物のきよさ(倫理的・人格的)が問われる時代になった、というのが正確。
・パリサイ人の言うように、主の栄光が戻るにはきよさが、すべての人に必要。だがそれは「儀式的」ではなく「倫理的」なもの(本物)として求められる必要があった。
・「儀式(手続き)的きよさ」が「倫理的きよさ」を隠してしまうと偽善がはびこる。心から出てくる汚れは、実際に、神の国を遠ざける。
結)私たちにもある落とし穴
・「天国行きの福音」の考え方では、きよめはおまけになる。「御国が来ますように」の福音では、きよめは中心課題。しかし落とし穴も多い。