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序)福音への応答に力を集めて~朽ちない冠を共に受けよう~ ・朽ちない冠(第一コリント)=いのちの冠(黙示録)=金の冠=ギリシア世界の陸上競技の勝者のしるし 1)「王冠(ディアデーマ)」ではなく「冠(ステファノス)」 ・黙示録において王冠は、悪魔の象徴である竜がかぶっている。 ・王冠は権力の象徴で、人を従え、富をわが物にし、快楽と好き勝手をするというネガティブな側面を強調している。 ・この王冠を巡って、奪い合いが起こり、その背後に悪魔の暗躍がある。人との比較の中で得られる勝利が「王冠」に象徴されると言ってよい。 ・「冠」は、神の前に与えられたいのちを忠実に走り切る絶対的勝利。 ・世の中は「王冠」を求める世界だから全世代が注意を払う必要がある。 ・神の計画と御心(神の国)のために忠実であることが冠を目指すレース 2)結果ではなくプロセスに ・「王冠」は結果に左右されるが「冠」は過程を問題にする。 ・結果が悪かったらどうしようという恐れによって、私たちは身動きが取れなくなる。「今」という時にベストを尽くす忠実さは、私たちを恐れから解放する。 ・人間が経験する最悪...
Published 11/17/24
序)黙示録の全体像と教会の個性 ・黙示録は 7 つのブロックでできている。 ・7は聖書的「完全数」と言い、完成、完了、全体、完全を意味する。 ・7つのサンプル教会へあてられた手紙(御使いに書き送れ→御使いによって書き送れ)は、すべての教会に当てはまる内容をもっていると同時に、4...
Published 11/10/24
Published 11/10/24
序1)「声を見る」ということ ・12 節「声を見る(ブレポー)」は「声に気づく」という意味と「声(幻全体)を悟る」という 2 つの意味がある。 ・ヨハネの黙示録は、見た(ホラオー)ままに書いたのではなく「わかる(ブレポー)」ように緻密な構成を練って書かれている。 序2)「人の子のような方」の幻とともに ・12 節~20 節の中に、ダニエル書、イザヤ書、エゼキエル書、福音書の引用がある。イメージ表現を通して伝えたいことを読み取る。 ・「人の子のような方」の姿は、イエス様のご性質を表し、七つの教会への手紙の中にちりばめられる。「一人のキリストから、七つの教会へ」 ・「星」と「燭台」がキリストとは別の象徴である。20...
Published 11/03/24
序)聖書の希望と死の現実 ・聖書が語るのは、死後の不滅の霊魂ではなく、「からだのよみがえり」であり、この世界が死の束縛から解かれ、新しくされる神の国の到来。 ・その一方で「神がいるならどうして…」という理不尽な現実がある。 ・黙示録の幻は、出来事を伝えるのではなくメッセージを運ぶ手段。 1)私たちの生涯を礼拝として受け取ってくださる神 ・「たましい」=「血」のことを指す婉曲表現。 ・「祭壇の下」とは、旧約聖書の礼拝儀式において、献げ物の動物の血が注ぎ出されるところであり、そこに「たましい」があるということは、その人の一切が、神様に受け入れられていることを伝える。 ・「自分たちが立てた証しのゆえに」や「一人ひとり」という言葉は、故人一人ひとりを丁寧に扱ってくださることを示す。 2)たましいの叫びを鎮めてくださる神 ・「叫ぶたましい」を鎮め「休むこと(安息)」ができるように言葉(具体的な言葉は書かれていない)を与えてくださる神の姿が描かれる。 ・一番悪い状況(迫害による理不尽な死:創世記 4...
Published 10/27/24
序)聖書に「神はいない」と書いてある?! ・神の存在は、聖書では大前提である。 ・「神はいない」と言ったのは誰だったのか。 1)善を行う者は誰一人いない(1-3 節):絶望 ・心の中で「神はいない」と言う者は、愚か者である。 ・「神はいない」という人とは「無神論者」のことではない。意図的に神に背を向ける者のことを指している。 ・「善」…神の心にかなうこと、人の目にも麗しく善いこと。 ・昔も今も、悪がはびこり、闇に覆われたかに見える世界で、社会全体が「神はいない」と叫んでいるかのよう。 ・そんな闇の中に、神の目(一筋の光) は注がれる。「神を探し求める者」を探すために。しかし見当たらない。 2)主が避け所である(4-6 節):希望 ・「彼らはわたしの民を食らいながらパンを食べ 主を呼び求めない」 →「彼らはパンを貪るようにわたしの民を食い尽くし」(フランシスコ会訳) ⇒「人を食い物にする」自分のり利益を得るために、人を利用する。 ・不法を行う者たちの内に現れる恐れ。(5 節) 「なぜならば(キー)」神は...
Published 10/20/24
1)まことの光 ・バプテスマのヨハネは光について証する存在であり、光ではなかった。 ・イエスこそ、まことの光であり、すべての人を暗闇の中で照らすお方である。 2)暗闇の中の人間 ・この世は、イエスが願っていたメシア(救い主)像ではなかったため、イエスを拒絶した。 ・人は、暗闇に生きていることに気づかないので、光を求めようとしない。 3)暗闇に輝く光 ・そのような暗闇の中にイエスは光として地上に来られた。 ・光を信じる者たちは、神によって生まれる。 4)イエスが来られたことで否定された 3 つのこと 1. 救いは血によらない 血縁関係、民族によるものではなくなった。 2. 肉の望むところでもない 行いや努力、律法の厳守によるものではなくなった。 3. 人間の意思によるのではない。 救いは、人の願いから生まれたものではなく、神から生まれたもの。 結) ・暗闇に気づき、光を求めて歩んでいきたいと願いませんか。
Published 10/13/24
序)黙示録の主題(ここまでの復習) ・1:1「起こるべきこと」=「神の国の到来(実現)」 ・実現の鍵は神の国の「国府」である教会にある。 ・1:7「見よ、その方は雲と共に来ている」=再臨まで何も起こらないのではない!「神が来る」=「さばきの実現」である。 ・1:10「うしろから」=過去の出来事が象徴化され未来を語るもの。 1)「ラッパ」は「角笛」とも訳される ・旧約聖書はヘブル語(一部アラム語)で書かれたが、アレキサンダー大王の言語政策によってヘブル語がわからなくなったユダヤ人のために、ギリシア語訳(七十人訳聖書)がつくられた。 ・ヘブル語では「角笛(ショーファー)」と「ラッパ(カトセラー)」は区別されるが、ギリシア語では区別する単語がないためどちらも「サルピングス」となっている。そこから日本語訳がされるのだが「ラッパ」より「角笛」が適切。 ・「角笛のような大きな声」と訳すとイザヤ書 58 章との繋がりが明瞭になる。「角笛」は頻繁に使われるが「角笛のような声」はこの箇所のみ。 2)「角笛のような大きな声」は悔い改めを求める ・イザヤ 58:1...
Published 10/06/24
序)未来への不安と占い信仰 ・古今東西「占い(未来予知)」への求めは強いが、聖書は占いを禁じている。しかし「御心」という言葉で占い的キリスト信仰に陥ることさえある。 1)「不安ビジネス」に巻き取られないために ・ヨハネの黙示録は世界の未来を占う本だという宣伝されている現状がある。 ・メディアは不安を煽る言葉を使うと儲けることができることを知っている。 ・伝道者 1:9~10 は、落ち着いた対処のための金言:「昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。...
Published 09/29/24
序)キリスト教の欧米化によって起こったこと ・「さばき」「神の審判」のイメージが偏っていないだろうか。 1)「さばき(シャファット)」の本来的意味 ・「さばき」をする人を聖書は「さばきつかさ(士師)」と呼ぶ。共同体全体を、正義と平和が実現するよう指導をすること。 ・「さばきつかさ」は侵略者との戦争の指揮もとった。 ・「さばき」には、民同士の争いの仲裁、違反者を罰し矯正し、弱い者の権利を擁護することも含まれる。 →キリスト教の欧米化と「天国止まりの福音」によって「さばき」の豊かなイメージは失われ、断罪し、信仰の有無を調べることに偏ってしまった。 →神の国の福音にとって「さばき」はできれば遠ざけたいものではなく、必要不可欠なものである。「さばき」と「救い」はコインの裏表 2)「神の来臨」から失われた意味 ・旧約で「神が来られる」というとクリスマス(初臨)の予告で、新約で「神(イエス)が来られる」というと再臨のことだとすぐに考えやすい。しかしそれは意味を狭くしている。 ・「神が来られる」=「神のさばきが行われる」ことを意味する慣用句でもある。用例として、ダニエル書...
Published 09/22/24
序)人との出会いが人生を変える ・自分が...
Published 09/15/24
序)「ヨハネの黙示録」は「わかる」ための本 ・「イエス・キリストの黙示」とはイエス様によって&イエス様について、「ベールに包まれていた真理がわかる=黙示」ようになったこと 1)「すぐに起こるべきこと」~ダニエル書とのつながり~ ・ヨハネの黙示録は「近未来を占う(憶測する)本」ではない。 ・「起こるべきこと(ハ・デイ・ゲネスタイ)」は、ダニエル書2:28が出所。「この方が終わりの日に起こることをネブカドネツァル王に示された」 ・ヨハネは「終わりの日」を「すぐに」と書き換えている。それはイエス様のみわざにより、もう「終わりの日」が始まっているから。 ・ダニエル書は 2:44...
Published 09/08/24
序)「神殿を熱心に思う」と迫害される詩人 ・35 節からすると、神殿と町々の破壊(バビロンによる)が詩人の目の前にあり、神の民としてのパブリックな悩みを悩んでいる。 ・この祈り全体が、イエス様の生涯と響き合って(福音書で数回引用されて)おり、イエスの弟子もこの祈りに連なることが求められている。 1)形として見える神殿から、見えない神殿へ ・A.D.70...
Published 09/01/24
序)「泥沼に沈む」こともある人生 ・「神様を信じ、神様を愛し、神様に従って生きるなら、ピンチはなくなり、平穏無事な人生が送れます」「あなたの人生に、こんな災い、ピンチが起こるのは、あなたが信じている神が間違っているか、あなたが神様に愛されていないかです」というのは偽りである。 ・まことの神を信じて生きる幸いとは、どんなピンチにも目的(意味)を見出すことができることにある。 1)「ピンチが来たら祈ろう」 ・たましいの筋肉を鍛えるために、ピンチは用いられる。 ・ピンチ→祈り→脱出(成長)が基本サイクル。ただ、大人になると祈り→脱出までが長くなる。助けが来るのと、体力(忍耐力)が限界を超えるのかが、ギリギリの勝負になるのが「泥沼」である。 ・「奔流」とは「鉄砲水」を意味する。普段、流れのない水無川に突然、水があふれるように、人生のピンチは突然やってくることが多い。 ・ピンチには人間関係の破綻が関連することが多い。 2)ピンチ=「アクシデント」×「恥」で訪れる ・物心がついた私たちは、恥をかくことを恐れ、恥ずかしい思いをするくらいなら、死んだほうがましという気持ちに支配さ...
Published 08/25/24
序)「氷点」が示す「なくてはならぬもの」② ・「おれにとって、なくてはならぬものとはなんだろう」(「氷点」階段) 三浦綾子著「氷点」の第二の自殺者が示す「なくてはならぬもの」 →自分の存在価値 ・「こうして自分が二年間休んだって、銀行はちっとも困りませんでした。そればかりじゃなく、ぼくの休んでいる間に市内にだけでも支店が二つもふえて繁盛しているんですからね。ぼくが休もうが休むまいが同じなんですよ。つまりぼくの存在価値はゼロなんです。」(「氷点」赤い花) ・「いったい私とは何ものなのだろう。」(「道ありき」一二) 1)神によって造られた ・「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記 1:27) 「神は…この天地を創造して、私たち人間を創って、命を与えて下さった絶対者」(「銃口」晩夏三) ・「あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です。…あなたの目は胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が...
Published 08/18/24
序)ヨハネの福音書概観 ・共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とは重なりの少ない福音書。 ・対象は、全世界の人々に向けて書かれ、神の子としてのイエスキリストを強調している。 ・著者は使徒ヨハネであり、晩年に書いたものではないかと言われている。 ・ローマ帝国からの迫害も強く、エルサレム神殿も滅ぼされた頃だと思われる。 1)ことばなるキリスト ・創世記冒頭をモチーフにしながら、イエスが神であり、ことばであることを紹介する。 ・ことばが受肉し、人となって地上にこられた。 ・イエスのことば、神のことばは必ず実現する。 →人の言葉は不確かで、必ずしも言葉と行いが一致するわけではない。 2)光なるキリスト ・不確かなことばが飛び交い、裏切り、裏切られる混沌とした世界の中に、ことばが受肉し、光となって地上に来た。 →これこそが光輝くキリスト。 ・イエスの光は闇の中に消えることはない。闇はこれに打ち勝てなかった。 結)まとめ ・罪を犯した人間は、言葉と行いが一致しくなり、神から離れていった。しかし、イエスさまの方から近づいてきてくださって、私たちを照らす光となった。
Published 08/11/24
序)マルコの福音書の大区分 ・「人々はわたしをだれだと言っていますか」は 6 章 14 節、15 節~との繰り返し(=言葉のサンドイッチ)を作っている。 ・「あなたはわたしをだれだと言いますか」=人生を左右する問い。 1)「あなたはキリストです」の意味 ・「キリストである」≒(ただの)「預言者」ではなく「決定的存在」。 ・この告白は言葉として正しいが、その中身として弟子が思っていたことは間違いが多かった。だから「だれにも言わないように」戒め(叱)られる。 ・この時点で、弟子たちは「ぼんやりとしか見えていない」状態。 →私たちはどうか?「見えているかどうか」を試すのは教理的正しさではなく、十字架がわかっているか、十字架を生きているか。 2)「自分の十字架を負って」の意味 ・「十字架がわかる」とは「イエス様の十字架が自分の罪のためだとわかり、信じること」?→これは最初の一歩に過ぎない。 ・「十字架がわかる」とは、十字架こそが自分 (人間)の目指す生き方だとわかり、そこに生きられるようになること。これは 0 か100...
Published 08/04/24
序)「見えている」「見えていない」? ・福音書では、神様の「救い」は、目の見えない人が、見えるようになることによってたとえられている。しかし、イエス様を信じているのに、目がふさがれていることがあるとは、どう理解したらいいのか。 1)「見えていることもあるけれど、完全ではない」私たち ・キリスト信仰者は「2...
Published 07/28/24
序)マルコの福音書の目的~神の国が近づく~ ・「イエス様がわかる」+「弟子の道を生きる」=「神の国が近づく」 1)勘違いでは済まされない状態~目がふさがれている弟子~ ・パリサイ人との論争の後、舟でベツサイダ(ホームグラウンド)に戻る際、パンを受け取り損ねた弟子達に「パン種」の話がされ、論争になる。 ・問題は「パン」ではなく、弟子たちの「目」が啓かれていないこと。目が啓かれていなければ、「パン種」の混入に対応できない。 ・ただの勘違いなら、そう訂正すればよいが、パン 1...
Published 07/21/24
序) ・今日も皆さんに...
Published 07/14/24
序)人生が整わない時に ・詩篇 39 篇は詩人のまとまらない思いをそのまま神の前に持ち出すことが許されていることを伝える。 ・悲しみに暮れ、暗い顔をし、肉体的に弱っていた詩人の...
Published 07/07/24
序)霊の渇きが満たされるなら、他者をも潤す ・のどが乾いたら水を飲む。飲まないと脱水症状になる。 ・霊の渇きがあるから私たちは教会に出席し、礼拝する。イエスさまから飲ませていただきたいから。 ・自分の渇きが満たされたら、今度は他の人を潤すようになる。霊の糧は飲み過ぎることなし。 1)主イエスのもとに来て飲め(37節) ・ユダヤ教教師(ラビ)は通常座って教えた。主イエスの所作は緊張感を与えた。 ・仮庵の祭りは a) 秋の収穫感謝祭◆レビ 23:33-43。 b) 出エジプトと荒野の幕屋生活の守りへの感謝 c) 雨乞いの祭り◆ゼカリヤ 14:8,16-17。 ・別訳「祭りが盛大に祝われる最終日」。七日間毎日、大祭司は木の枝を右手に果実の枝を左手に持った巡礼者らを伴い、ギホンの泉で水を汲み、イザヤ12:3 を合唱しつつ神殿へ。ハレルヤ詩篇(113-118)を歌い、ホサナの歌118:25 を歌いつつ祭壇を周回し、祭壇の両側に水を注いで雨と実りを求めた。荒野で主が岩から水を出した(出エジ 17:6;民 20:11;Ⅰコリ...
Published 06/30/24
序)人生を狂わせる力 ・私たちはみな、どうやって生きて行ったらよいか悩む者である。 ・私たちが善い人生を生きることを願っている神がおられ、聖書によって助けようとしておられる。(Ⅱテモテ 3 章 15...
Published 06/23/24
序)イエスの「深いため息」は今日も… ・「聖書で読み解くこれからの世界情勢」的なコンテンツへの異常な人気 ・「聖書のある記述が正しいことが科学的に証明された!」的な話題 →これらは神を信頼することとは無関係であり「天からのしるし」を求めることの現代版である。 ・「聖書で読み解くこれからの世界情勢」的なコンテンツはしばしば修正される。修正されるもので「当たるから正しい」と言うのは詐欺。 ・「聖書のある記述が正しくないことが科学的に証明された!」場合に、科学を否定する。これは究極のご都合主義である。 1)私たちに潜む「天からのしるし」願望 ・「御心」という言葉で、自分の人生の成功保証をしたいという心は多くの人に潜んでいる。これはキリスト信仰の「占い化」である。 ・「天からのしるし」の本質は「絶対大丈夫という確信」である。しかし、これは絶対に与えられない。 →もし「絶対大丈夫という確信」をもってしまったら、自分の確信した「考え」が絶対になり、他者の声は入って来なくなり、対話することができなくなる。「不安」は消えるが「祈り」も消える。 →この「絶対」を守るために、攻撃的になる場合もある...
Published 06/16/24
序)「五千人の祝宴」と比較するように…「再び」 ・6 章には武装蜂起によって神の国を勝ち取ろうと息巻くガリラヤの男たちを、敵をよそに食卓を整え、お腹を満たし、愛されもてなされる価値のある一人ひとりであることを伝える、五千人の祝宴が記されていた。 1)3 つの違いから見えてくること ・「きっかけ」…イエス様の「腸がよじれる思い」から始まる。 ・「対象」…「遠くから来ている人」とは、イスラエルが捕囚されていった異邦人の地を指す定型句であり、この時の対象の多くは異邦人であった。残った籠の数が象徴するのは、6 章はイスラエル(12 部族)、8 章はグローバル(7 は完全 数、4 は「地の四方」を象徴する)である。 ・「目的」…「途中で動けなくなる」=「その道であきらめてしまう」 → 何をあきらめてしまうことをイエス様は懸念しているのか?単に帰宅するだけなら、道中で買い物をしたり宿泊したりすることはできるはず。 2)四千人の壮行会(派遣のための食事) ・5 章と 7...
Published 06/09/24