Description
序)「五千人の祝宴」と比較するように…「再び」
・6 章には武装蜂起によって神の国を勝ち取ろうと息巻くガリラヤの男たちを、敵をよそに食卓を整え、お腹を満たし、愛されもてなされる価値のある一人ひとりであることを伝える、五千人の祝宴が記されていた。
1)3 つの違いから見えてくること
・「きっかけ」…イエス様の「腸がよじれる思い」から始まる。
・「対象」…「遠くから来ている人」とは、イスラエルが捕囚されていった異邦人の地を指す定型句であり、この時の対象の多くは異邦人であった。残った籠の数が象徴するのは、6 章はイスラエル(12 部族)、8 章はグローバル(7 は完全
数、4 は「地の四方」を象徴する)である。
・「目的」…「途中で動けなくなる」=「その道であきらめてしまう」
→ 何をあきらめてしまうことをイエス様は懸念しているのか?単に帰宅するだけなら、道中で買い物をしたり宿泊したりすることはできるはず。
2)四千人の壮行会(派遣のための食事)
・5 章と 7 章の出来事が背景と文脈を提供する。レギオンに憑かれた男の解放、ツロ・フェニキアの女性の娘の悪霊からの解放、耳が聞こえず、口のきけない人の癒しが、この地方で起きている。
→大勢の群衆は癒しを求めてきていたと考えられる。癒された人は、イエス様のもとに留まっていた。その人たちをイエス様は「あなたの家、あなたの家族のところへ」遣わそうとしていた。(参照:5 章 19 節)
・癒しは神の国の始まりを証しする。アブラハムに約束された「すべての国民が祝福に入る」ことが実現し始めていた。この福音を携え帰宅することがイエス様の願い。しかし「空腹のままでは」実現しない。
・イエス様の下さる「食べる物」とは、ゼロをプラスにする神の愛。
3)イエス様の眼差しは今も変わらず
・週ごとの教会の礼拝において、私たちは養われる。神の国から「遠いところ」に私たちも遣わされる。
・私たちの世界には、人生をあきらめたくなる「生きづらさ」がある。教会の営みも長い道のり。長い旅路を歩き抜くために養いが必要である。
結)満たされるためのチャレンジ…「パンはいくつありますか」
・分かち合うために十分な「パン」が私たちの手元にある。自分だけで食べると足りないが、分かち合うと増えて満ち足り、余るほどになる。
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