開眼へと導く主イエス(2)~問いの力~(マルコの福音書8章22節~26節)
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序)「見えている」「見えていない」? ・福音書では、神様の「救い」は、目の見えない人が、見えるようになることによってたとえられている。しかし、イエス様を信じているのに、目がふさがれていることがあるとは、どう理解したらいいのか。 1)「見えていることもあるけれど、完全ではない」私たち ・キリスト信仰者は「2 段階の癒し」の間に生きている! ・光は入ってきているから、明るい方向に進めるが、全貌は見えない。 ・誰かを導く場合にも、自分の考えを絶対化しない謙虚さが生まれてくる。 ・「見えている」と思うと、それ以上の成長はない。もっと見える世界を求めていくことが願われている。 ・私たちは、よりはっきり見えるようになるとき、神の国を生きる者として、本来の人間の姿である「神のかたち」として生きることができる。 2)村の外へ連れ出すイエス様 ・誰が「目の見えない人」を連れてきたのか、曖昧な書き方がされている。そのことにより、弟子たちが、自分が「見えない者」であると自覚して、イエス様に助けを求めるべきであるということが、実際に視覚障害で苦しんでいる人を助ける物語と重ねられていると読める。 ・私たちが見えるようになるために「環境」は重要である。一対一でイエス様と向き合える時間と場所を日常という「村」の外に確保すること。 ・イエス様と濃い関係を持つ時、見えるようになるための力は注がれる。 3)「何が見えますか」と訊かれるイエス様 ・「聞かれる(尋ねる)」は未完了形。答えを「言った」のも未完了形(関係が閉じられていない)で記されていることに注意。物語は、一往復のやり取りとして記されているが、実際(意味と意図)は、何度も繰り返し質問と答えがあり、何度も癒しの力が注がれたことを示す。 ・「何が見えますか」≒「何に注意していますか」「何に注目していますか」「何に気を取られていますか」この問いに正直に答えてみること。 ・この目の見えない人は「人」に心が向いていた。でも彼が見ていたのは人ではなかったかもしれない。見たいものを見たいように見てしまい、現実をゆがめやすい私たちの姿である。 結)「見えていても、見えていない」ことを受け止めて ・何が見えているか、何を見ているかで人生の歩みは変わってくる。 ・完全に見えるようになるのは、主イエスの再臨の時である。
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