Description
序)「キリスト教都市」は遠くて近い目標
・「キリスト教都市」は「御国が来ますように」を現代社会に適用した言葉
・使いやすい言葉だが中身のイメージはバラバラ→神の国が人には捉え難いゆえでもあり、聖書によって内実を教えられ、すり合わせながら歩むことが重要。
・中身に目を留めるとき「キリスト教都市」=「永遠のいのちが注がれる場所」は教会の交わりの中に始まっていくべき近い目標となる。
1)「幸せと楽しさ」はどこに?
・この詩篇では「ともに生きること」=「生活そのもの」が幸せで楽しいことが、神の恵みとして歌われている。非日常のエンターテイメントは否定されないが、ここでの主題ではない。エンタメ消費は、ベーシックな生活の底上げをせず、逃避的になるなら、悪の温床にさえなってしまう。
2)「兄弟たち」とは誰か?
・「兄弟」とは「親を同じくする子どもたち」であるが、拡大家族が一般的な社会では「大人になっても連来して暮らす関係」であり、土地を分け合って隣り合って暮らす家族の代表同士を指している。
・「兄弟」というのは互いを互いにライバルに思ったり、ずるいと感じたりする複雑な関係にあり、一つになることは人間関係の中で一番難しいと言える。この難しい関係に注がれる恵みがあるなら、あらゆる人間関係にも可能性が開かれる(適用できる)ことになる。
3)「一つになる」ための鍵とは?
・「一つになる」とは同化することではなく、共通の目的に主体的に関わり、互いの間に調和がある状態を言う。
・オーケストラを例に考えるとわかりやすい。各自が自分の音色を際立たせることを考えていては良い演奏にならない。オーケストラの存在は、観客に幸せを届けるためにある。そして、そのために指揮者の存在が欠かせない。観客と指揮者を、神様が担ってくださることが恵みである。
・詩人は「アロンのひげに流れる油」(霊的恵み)と「ヘルモンの露」(物的自然の恵み)を比喩的に用いる。どちらも上から下に、へりくだる者に注がれることにポイントがある。
・私たちが兄弟/隣人を尊敬し、その向こうに神を見るなら恵みが流れる。
結)へりくだりの交わりの真ん中に
・「永遠のいのち」は常に単数形で用いられる。ひとつのいのちに、一人の指揮者のもとで、皆が生きるのが、永遠のいのちである。