Description
序)「イエスの弟子の道」を行く者のシンボルとして
・ペテロはただの登場人物ではなく、主の弟子の典型的シンボルの存在。彼に私たちは自分を重ね、イエス様と彼のやり取りからイエスの弟子の道を学ぶことができる。
1)イエス様を「捨てられなかったペテロ」?
・ペテロは一度は逃げたが、考えを変えて大祭司の庭に紛れ込む。解放された場合に、真っ先にお迎えにあがりたいと思っていたかもしれない。
・「大祭司の召使いの女」の質問から急にペテロにスポットが当たってしまう。部屋ではイエスの裁判、中庭ではペテロの裁判が始まる。
・「再び否定した」=「再び否定を始めた」であり、繰り返す中でガリラヤ訛りが露呈して、周りの大人に加勢される羽目になる。
・やがて、呪いをかけて「誓い始め」、ペテロは自分の人生からイエスの存在を消し去る。二度目の鶏の鳴き声が、この誓いを止めさせる契機になる。
2)自分を「捨てられなかったペテロ」
・この物語に救いはあるのか?反面教師としての学びは無効である。気をつけて気をつけられることではない。ペテロには覚悟もあった。
・弟子の道は「あなたはキリストです」と告白するところから始まり、「自分を捨てる」ことが求められる。この「捨てる」と「知らないと言う」が同じ言葉である。
・ペテロは自分を捨てられず、イエス様を捨てた。イエスの弟子であることが自分の名誉と結びついており、イエスはそれを見抜いていた。「自分を捨てる」とは自分の名誉を「知らないと言う」ことである。
・どうやって自分を捨てることができるのか。
3)イエス様に「捨てられなかったペテロ」
・65 節で「当ててみろ」とイエス様はなじられる。これは「預言せよ」という言葉。この響きの中に、ペテロの物語があり、預言的中となる。
・ペテロにとっては不意をつかれた出来事だったが、イエス様の預言の中にある出来事だったことに救いがある。
・ペテロの否定の預言とともに、弟子たちとの関係回復も預言されていた。(14:28)そしてそれは現実になった。この物語の存在がその証拠。
・ペテロは自らの失敗を福音書に載せることで、自分を捨てられた。自分の名誉をはるかに上回る主の愛に触れた時、人は自分を捨てられる。
結)「愛された大恥かき」でいい
・イエス様を愛して行動するところからしか、弟子としての成長はない。