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序)十字架当日の朝
・ピラトの前の裁判において「イエスとは何者なのか」「主イエスの弟子の道とはどういう道か」の 2 つのテーマが両方とも扱われる。
1)イエス様は、口を開かない「受難のしもべ」
・イザヤ53章6-7節の預言をふまえると、イエス様はご自分が、イザヤの預言した受難のしもべであることを証ししている。
2)イエス様は「ユダヤ人の王」なのか。
・15 章にはピラトの問いを皮切りに「ユダヤ人の王」という言葉が頻出する。この問いにイエス様は「あなたがそう言っています」と答える。
→これは意図的にあいまいな返事であり、これがマルコが伝えるイエス様の最後の言葉。ピラトはこの答えを繰り返し考えることになった。
・「あなたがそう言っています」は、本当に自分でそう思っているのかという問いかけにも聞こえる。
・「あなたがそう言っています」には、ピラトの考える「王」とは違う「王の道」があることをほのめかすようにも聞こえる。
→ピラトの戸惑いは、私たちへの問いかけとなる。
3)主の沈黙は、御国をもたらす主の弟子の道
・イエス様の最後の言葉と沈黙はマルコの福音書 13 章 11 節を手掛かりにすると、聖霊によって導かれたものである。
・聖霊の声に耳をそばだてた結果、語るべき言葉と沈黙が与えられた。ペテロはこの耳がまだ開かれていなかった。
・自分が正しかったとしても自己弁護をしないで、聖霊の言葉を探すことで、イエス様には神の国を証しする言葉が与えられた。主の弟子は、このイエス様の姿を追いかける者である。
・聖霊の言葉とひとつになった「私の言葉」が、この世にある成功や繁栄の信念を揺さぶる、違う道を証しする言葉となる。
・この沈黙は決して易しいものではなく、苦しくつらいもの。しかし、自己弁護の機会を奪われ、沈黙を強いられている人々が世の片隅におり、イエス様は「沈黙の羊」としてその方々と一つになる道を選んでいる。
・ここには「身代わり」の前に連帯してくださる主の姿があり、それは主の弟子の道でもある。
結)聖霊の言葉を探す沈黙へ
・私たちが主の沈黙とひとつになるなら、想像を超えた形で神の国がもたらされる。