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序)福音からの逸脱~経済格差の助長、貧困の放置~
・十字架と復活の前後には食卓の場面が多い。昇天後も、弟子たちは食事のたびごとに目に見えないホストであるイエスの食卓に連なっていることを覚えた。ここに「交わり(コイノニア)」が生まれた。これが教会の原点である。(使徒 2:42 参照)
1)愛餐、礼拝、聖餐式
・毎週日曜日に集まるのがキリスト信仰のあり方ではない。聖書が描くのは生活の場、食事というありふれた日常において、よみがえりの主を覚え、儀式ばらずに賛美と祈りをもって礼拝すること。
・そこに生まれる「交わり」が「義と平和を追求するものとなる」こと。
・共に食べられない時、交わりは破れている、破られていく。和解なくして食卓なし。主の食卓に連なることができるのは、十字架による赦しがあるから。そして、この赦しが人間関係に広がること(=平和)が神の期待。
・聖餐はこのことの象徴であり、日常が吟味されなくては、ただの儀式になる。
2)コリント教会に起きていたこと~ふさわしくない仕方~
・はじまりの教会は、毎日、共に集まって食事(愛餐)をし、引き続いて聖餐が行われていた。当時はたいてい、経済的に余裕のある人が、教会の集まりのために、自分の家、自分のリビングルームを提供していた。
・労働時間の短いお金持ちが先に食事をしてしまい、貧しい労働者は腹ペコのまま過ごす。その結果、栄養失調、病気、死人も出ていた。
・「空腹な人は家で食べなさい(34 節)」は大いなる皮肉。金持ち=「空腹な人」である。本当に空腹な貧しい人は家に帰っても食べられない。
・パウロの真意は「食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。」
3)福音にまっすぐ生きるために
・主イエスがされた食事は「感謝して分け与える」もの。他者に「いのちを与える」ものであり、「他人のいのちを奪う」ものではない。この聖餐と日々の食卓に矛盾はないか。吟味が求められる。
・2000 年前よりも現代は、世界がつながり、答えが簡単に出ない時代。構造的な問題が多い。これをひっくり返す積極的アクションが求められる。信仰と希望と愛は、ここで発揮すべきもの。
結)「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」
・「日ごと」=「来るべき」という特殊な言葉。「今日、私が口にする食べ物が、来るべき糧=御国の食事となるように」という意味がある。
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