Description
序)詩篇~たましいの滑走路~
・詩篇のことばは祈りであるので、永遠不変の真理命題とは限らない。
・病気は罪の結果だと教えるものではない。
1)病気と罪の関係~堕落前から病気はあったのか~
・堕落以前から「従えるべきもの」があったことが創世記1:28 からわかる。人間が創造の仕上げであるから、病原菌類はその前に創造されている。
・「毒草」も堕落後の産物とは言えない。人間が従えられないと害を及ぼす。
・堕落は、神との関係の断絶により、神の知恵を受けることを阻害した。その結果、従えることが困難になった。けれども不可能ではない。
・堕落の結果、罪ゆえの病というものが生じたことも事実。それで今日、病は弱さ、自分の罪、他人の罪、不可抗力等の絡み合いで訪れる。
2)病の中で神の目的を探す
・詩篇 38 篇の詩人に及んだ病は罪・咎・愚かさゆえと表現されているから、本人にはわかる因果関係があったと思われる。
・病の中で人は、過去に思いを向けて反省する心が生まれる。ある程度は健全なこと。「原因」を求めるより「目的」を探すこと。それが「責める(=叱る)」「懲らしめる(=教える)」という言葉に滲み出ている。
・神の怒りは、鬱憤晴らしではなく、正義ゆえであり、人が誤った道を進むことに我慢できない愛の裏返し。その神が病に陥ることを許されたのなら良い目的がある。しかし、それがしんどい時には、ストレートに「止めてほしい」と祈ってよい。
3)病の中でコントロール能力を取り戻す
・病に陥っただけでも苦しいが、そこに他人の冷たい応答や心ない声が入ってくると、余計に苦しいことになる。
・しかし詩人はここで「聞かない」という選択をする。耳をふさぐというより、心の中にその声を入れないという決断。その代わりに、神の声に集中し、祈りに集中する。
・自分の咎を告白することは有益だが、病を癒す魔術的手段ではない。病の先にある新しい生き方を求めることこそ、本当の悔い改めを生む。
結)𠮟責しても近くにいる方
・詩人は、自分が病に陥ることを許された神を恨むのではなく、それでもなお「私の救い」と呼びかけて近づく。こうして詩人はたましいの強さを得る。この神が人になって主イエスとして現れてくださった。
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