Description
自分の顔は、自分のものでありながら自分自身で直接見ることができません。
鏡という道具を使って、はじめて顔を見ることができます。
そして、私たちは鏡に映し出されたその顔を、自分の顔そのものとして受け入れ、信頼しています。
もしその顔に吹き出ものがあればすぐに治療をしますし、顔色が悪ければそれを改善しようと試みます。
顔と同じように、自分のこころも自分では目にすることができないものです。やはり、なにか見るための道具を必要とします。
では、自分のこころを見るためには何を使えばよいのでしょう?
それは、顔を見るときと同様に、やはり鏡を使います。鏡を見ることで、その状態を知ることができるのです。
自分のこころを見るための鏡とは何でしょうか?
それは自分の外側の「世界や人」という鏡なのです。
自分と向かいあっている世界や人は、まさに自分のこころの状態をそっくりそのまま映しだしてくれる鏡そのものです。
自分が気づいているこころも、気づくことがない無意識のこころも、丸ごと正直に映し出します。
気づいているこころはまだしも、無意識のこころのなかには自分が拒絶してきた怖れや怒り、罪悪感、傷ついた痛みなどが温存されているために、それが鏡に映し出されるとまるで自分とは関係ないもののように感じてしまうこともあるかもしれません。そして、それを嫌悪し、遠ざけてしまうこともあるかもしれません。
なぜ外側の世界や人が自分のこころのすべてを映し出しているのかというと、「自分」こそがそれを見て、「自分」こそがそれを感じて、「自分」こそがそれを解釈しているので、それはまさに自分自身のシンボルであり、自分が自分そのものを見ていることになるからです。
「人のふりみて、我がふりなおせ」という古くからの教訓がありますが、まさにそういうことなのです。
この世界・人という鏡があり、私のこころのすべてを映し出してくれるからこそ、私たちは自分の顔の吹き出ものに気づいて治療するがごとく、こころの間違に気づいて、それを正すためにこころを変えることができるのです。
そうでないならば、私たちがこころを正すための手がかりがなくなってしまうことになります。
また同時に、私たちのこころにはすべてのものごとに対する答えも存在しています。
それは、自分や人にかかわるすべての問題の解決策となる万能の答えです。
この答えを受け取るためにも、世界や人という鏡を必要とするのです。
直接自分のこころから答えを受け取ろうとしても、「そんなはずはない」「間違っているに違いない」と、疑いや怖れなどの癒されていない考えにすぐさまブロックされ、素直に答えを信頼することができなくなっています。
キラキラと輝くインスピレーションは、すぐさま却下されてゴミ箱に捨てられてしまうのです。
せっかく浮かんできた解決策も、「いや、それはダメだ」「できるはずがない」という否定的な思いに阻まれてしまえば、その導きはまったく無きものになってしまうのです。
自分を確実に導き、問題から救ってくれる答えはすでにそこにあります。
それを手にするためには、自分のこころのすべてを映しだしてくれる世界・人という鏡を使って、確実に受け取ることができるのです。