永井荷風『曇天』The Cloudy Sky by Kafu NAGAI
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This reading is supported by Patreon members.この朗読はPatreonのサポーターの皆様の応援により可能となりました。ここに感謝の意を表します。 E-Text from Aozora bunko 曇天  永井荷風     衰残、憔悴、零落、失敗。これほど味い深く、自分の心を打つものはない。暴風に吹きおとされた泥の上の花びらは、朝日の光に咲きかける蕾の色よりも、どれほど美しく見えるであろう。捨てられた時、別れた後、自分は初めて恋の味いを知った。平家物語は日本に二ツと見られぬ不朽のエポッペエである。もしそれ、光栄ある、ナポレオンの帝政が、今日までもつづいていたならば、自分はかくまで烈しく、フランスを愛し得たであろうか。壮麗なるコンコルトの眺めよ。そは戦敗の黒幕に蔽われ、手向の花束にかざられたストラスブルグの石像あるがために、一層偉大に、一層幽婉になったではないか。凱旋門をばあれほど高く、あれほど大きく、打仰ごうとするには、ぜひともその下で、乱入した独逸人が、シュッベルトの進行曲を奏したという、屈辱の歴史を思返す必要がある。後世のギリシヤ人は太古祖先の繁栄を一層強く引立たせる目的で、わざわざ土耳古人に虐げられていたのではあるまいか、自分は日本よりも支那を愛する。暗鬱悲惨なるが故にロシヤを敬う。イギリス人を憎む。エジプト人をゆかしく思う。官立の大学を卒業し、文官試験に合格し、局長や知事になった友達は自分の訪ねようとする人ではない。華族女学校を卒業して親の手から夫の手に移され、児を産んで愛国婦人会の名誉会員になっている女は、自分の振向こうとする人ではない。自分は汚名を世に謳われた不義の娘と腕を組みたい。嫌われたあげくに無理心中して、生残った男と酒が飲みたい。晴れた春の日の、日比谷公園に行くなかれ。雨の降る日に泥濘の本所を散歩しよう。鳥うたい草薫る春や夏が、田園に何の趣きを添えようか。曇った秋の小径の夕暮に、踏みしく落葉の音をきいて、はじめて遠く、都市を離れた心になる……  自分は何となく気抜けした心持で、昼過ぎに訪問した友達の家を出た。友達は年久しく恋していた女をば、両親の反対やら、境遇の不便やら、さまざまな浮世の障害を切抜けて、見初めて後の幾年目、やッとの事で新しい家庭を根岸に造ったのだ。その喜ばしい報道に接したのは、自分が外国へ行ってちょうど二年目、日本では梅が咲く、しかしかの国ではまだ雪が解けない春の事で、自分は遠からず故郷へ帰ったならば、何はさて置き、わが出発の昔には、不幸な運命に泣いてのみいた若い男、若い女、今では幸福な夫と妻、その美しい姿を見て、心のかぎり喜びたいと思っていた。しかし自分はどうした訳であろう。ただ何という事もなくがっかりしたのだ。一種の悲愁と、一種の絶望を覚えたのだ。ああ、どうしたわけであろう。どうしたわけであろう。  毎日の曇天。十一月の半過ぎ。寂とした根岸の里。湿った道の生垣つづき。自分はひとり、時雨を恐れる蝙蝠傘を杖にして、落葉の多い車坂を上った。巴里の墓地に立つ悲しいシープレーの樹を見るような真黒な杉の立木に、木陰の空気はことさらに湿って、冷かに人の肌をさす。  淋しくも静かに立ち連った石燈籠
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皆様こんにちは、いかがお過ごしでしょうか。最近、YouTubeとiTunesにチャンネルを開設しました。いろいろ試行錯誤しています。良かったら覗いてみてください。こちらのサイトの更新はしばらくお休みするつもりです。なお Patreon の会員制クラブ 「南風舎」では毎週更新中です。わたしの小さな文学クラブへ、良かったらご参加ください。どうぞ宜しくお願いします。 Dear listeners of Japanese classical literature,I hope you are well.Recently I have created YouTube and iTunes...
Published 07/15/21
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Published 06/26/21
Supported by Patreon member of the club, 南風舎 My YouTube channelhttps://www.youtube.com/channel/UCUb7FArk58HS_U87a9cZ_vQ Play list: Ten Nights of Dreams by Soseki NATSUMEhttps://www.youtube.com/playlist?list=PLwqiwuMgsh-K7dvAr8Inr_0owr19K_g2U Transcript   Hello, Kasumi Kobayashi here. Thank you...
Published 06/16/21