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#オンライン礼拝 #徳島北教会 #アブラハム #イスラエル #召命 聖書……創世記12章1-9節(アブラム、召命を受けてカナンに入る) 説き明かし……「今日が人生でいちばん若い日」by...
Published 01/21/24
#オンライン礼拝 #徳島北教会 #休み 聖書……創世記2章1−3節(神は7日目に休まれた) 説き明かし……「愛も休み休みにしろ」by...
Published 10/15/23
#オンライン礼拝 #徳島北教会 #平和聖日 #平和 #戦争 #命 平和聖日礼拝 聖書……旧約聖書・詩編147編10−11節(主は馬の勇ましさを喜ばれない) 説き明かし……「小さな命を守れなければ」by...
Published 08/06/23
#オンライン礼拝 #徳島北教会 #部落解放 #解放へのオガリ...
Published 07/09/23
聖書の引用……創世記12章1−4節(アブラムの召命:アブラム、主に「私が示す地に行きなさい」と言われてしまう) 説き明かし……「あなたではなく、神の方があなたに望んでいる」by ぼやき牧師|富田正樹 #オンライン礼拝 #徳島北教会 #アブラハム #フェーズ...
Published 05/07/23
聖書の箇所……新約聖書マルコによる福音書16章1−8節(イエス、起こされる)  最初の福音書であるマルコによる福音書の復活物語は、墓が空になっており、それを見た女性たちが恐れおののいて逃げ出すところで終わっています。肉体として蘇ったイエスのことは何ひとつ語られてはいません。  空の墓の中にいた若者は「ガリラヤに行けばイエスにお目にかかれる」と言います。ガリラヤとはイエスの「神の国運動」の始まった地であり、ほとんどの舞台でもあります。つまり、ガリラヤとはイエスの原点であった場所です。その原点に戻れば、あなたもイエスと出会い直せるだろう、とこの若者は言うのです。  イエスの「神の国運動」すなわち、貧しい者が食べ、病んでいる者が癒やされ、虐げられている者が引き上げられる、そしてやがてこの世が完成する日のことを説く。その活動が、ガリラヤでイエスの遺志を受け継いで行われている場所で、私たちはイエスの面影を発見するのです。  イエスは文字通りには「引き上げられた」と書かれています。誰が引き上げたのか。それは神だというのは教科書的な答えです。しかし、別の意味でイエスは、イエスを失っ...
Published 04/10/23
聖書……ヨハネによる福音書15章11−17節(互いに愛し合いなさい。あなたがたはわたしの友である) 説き明かし……「友を愛することと敵を愛すること」by...
Published 03/05/23
聖書の箇所……ルカによる福音書8章4-8節(「種を蒔く人」のたとえ)  種を蒔く人のたとえは、話の後に説明までついている珍しいたとえ話です。しかし、この説明は、いったん逃げて、それからおめおめと戻ってきた12人の男性の弟子たちが作った物語のように思えます。イエスは単に「種を蒔く人が種蒔きに出て行った……」というたとえを話されただけのようなのです。  弟子たちが捏造した解釈の方では、「神さまの言葉を受け取ったら、良い土地に蒔かれた種のように、善い心でそれを守り、忍耐して実を結びなさいよ」という教訓のように受け取られます。しかし、それでは「良い土地」になりきれない人間はどうなるのでしょうか。  それに、神の言葉を受け入れてくれない人を、「あの人たちは悪い土地のおうな人なのだ」と裁くことになってしまうのではないでしょうか。  しかし、それらはみな、自分たちを種を蒔かれる側の受け身に置いている解釈です。一度、自分は種蒔きなのかも知れないと考えてみてはいかがでしょうか。私たちは相手がどんな人間でも、愛の種を蒔いているでしょうか。  神は私たちがどんな状況でも、あるいはどんなに...
Published 02/05/23
聖書の引用……新約聖書コリントの信徒への手紙(一)10章13節(耐えられないような試練と逃げ道) 説き明かし……「逃げ道の無い試練にも出口はある」by...
Published 01/29/23
徳島北教会 新年礼拝 説き明かし 『お正月おつかれさま、おかえりなさい』 聖書の箇所……新約聖書・使徒言行録17章22-29節(「知られざる神に」)  皆さま、あけましておめでとうございます。  お正月お疲れさまでした。ようこそ教会におかえりなさい。お正月は家族が集って楽しい思いをする人もいれば、長男や長男の妻はしんどい役割を強いられ、疲弊してしまう人もいる、複雑な季節です。  日本人は「私は無宗教だ」と言うわりには非常に信仰熱心です。私の父親は亡くなる間際に病床洗礼を受けたクリスチャンですが、母親と弟が数十万円払って戒名と位牌を作り、無理やりお寺で供養してもらうように手はずを整えてしまいました。  しかし、初詣や墓参りに熱心な人たちも、同じ神さまの中にいるのだと考えることが、私たちにはできます。この世の全てが神であり、全ての存在が神の内にいるという考え方(汎神論)もキリスト教の中にあり、こう考えると、様々な宗教も最終的には1つの神のもとへと収まってゆくようにみなすこともできるのです。  1人の神を拝む一神教と、全てのものそれぞれに神が宿ると考える多神教とで...
Published 01/09/23
 クリスマスおめでとうございます。  クリスマスを祝いつつ、戦禍の中にいる人、困窮している人、病の中にある人などのことを思い、祈らなければならない私たちです。  世の中には構造的暴力というものがあります。貧困や格差のある社会、差別のある社会、ハラスメントのある社会……そういった社会の中に組み込まれてしまっている暴力のことを構造的暴力と言います。  今日の聖書の物語の主人公である羊飼いたちも、まさにこの構造的暴力の被害者でした。  しかし、救い主の誕生の知らせは、真っ先にこのような人たちのところにやってきます。そして天使たちは言います。「天には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と。  「御心に適う人」というと、まるで御心に適わない人がいるようで、ちょっと嫌な翻訳です。これは実際には「(神に)喜ばれる人たち」と書いてあるだけであり、どんな人でも神は喜んでおいでになるのだから、要するに「誰でも」という意味なのです。  実際「すべての民の喜びの知らせ」とも書いてあるように、神にとってはすべての人間が喜びの対象なのです。  羊飼いたちは救い主にあって、構造的暴力...
Published 12/25/22
#アドヴェント #枚方くずは教会 #アッバ 聖書の言葉……マタイによる福音書6章9−13節(主の祈り)  アドヴェントでは、よく「あなたの御子イエス・キリストのご誕生」という言葉を祈りの中で使います。この場合、「あなた」というのは当然神さまのことを指しているわけですが。この「あなた」を「父なる神」と呼ぶことに抵抗を感じておられる方はおられるでしょうか。  神が男であるということに抵抗を感じられる方がいらっしゃるかも知れません。確かに、キリスト教会の世界でも男中心社会であることは否めません。教会員の中には女性の方が多いのにもかかわらず、役員は男ばかりだったり、大事な意志決定は男に任されていたり、著名な神学者はお爺さんばかり、教区総会、教団総会でも並ぶのは男ばかり。教会はまだまだ男性社会です。そんな男性社会の根底にあるのが、「男である神」という観念ではないかという考え方もあります。  しかし、問題はイエス自身が神を「父」と呼んだことです。これは揺るぎのない事実です。ですから、イエスに倣って神を「父なる神」と呼んでも非難されるべきことではないとも言えます。  ただ、当時の...
Published 11/27/22
#永眠者記念礼拝 #徳島北教会 #永遠の命 聖書の箇所……ヨハネによる福音書17章3節(新約聖書:新共同訳 p.202、聖書協会共同訳...
Published 11/20/22
聖書……イザヤ書57章18−19節(平和、平和。遠くにいる人にも、近くにいる人にも) 説き明かし……「沖縄は怒っている」 沖縄に行ってきました。3泊4日で沖縄戦のことや現在の基地の問題などを学びに行きたいと思っていましたが、3泊4日ではとても「わかる」ことなどできない、「自分は何もわかっていなかった」ということばかりが思い知らされる旅でした。 本当に何もわかっていなかったのです。沖縄戦で驚くほど多くの人の命が奪われたこと。米軍だけでなく、むしろ日本軍によって殺された琉球の人たちの酷い真実。そして、今、基地周辺で生活に支障をきたしている人たちのこと。 しかし同時に、考えうる限りのあらゆる努力と工夫と知恵によって基地の土地の返還を成功させ、アメリカ政府にも大和政府にも相対して抵抗する自治体があることも知りました。 沖縄では信仰と政治が密接に結びついていることを痛感しました。基地を容認するか、撤去するか、それが政治に反映されるため、基地反対派の政治家の当選を直接祈るということもされます。教会でも選挙の話でもちきりです。ここまで政治に関心を持つキリスト教会は日本では珍しいの...
Published 10/30/22
#世界聖餐日 #最後の晩餐 #徳島北教会 聖書の引用……出エジプト記12章21−28節(過越の儀式の由来) 説き明かし……「私たちの信仰」と「私の信仰」 【おはなしの概要】  出エジプト記にはエジプトで奴隷になっていたイスラエル民族が、主なる神によって解放されたことをお祝いする「過越祭」の由来が書かれています。この物語を、後々ユダヤ人は自分たちの民族のアイデンティティを確立する重要なお祭りとして祝うようになっていきます。  ここで描かれているのは、イスラエル民族にとっての「私たちの信仰」です。集団的な信仰です。そしてその「私たち」の外にある人びとは、敵であるか自分たちよりも劣った者たちという捉え方になります。  しかし、イエスはこのイスラエルの「私たちの信仰」を相対化してしまい、「私の信仰」に変えてしまいます。イエスは癒やすにしても教えるにしても、「あなたはどう生きるのか」、「あなたの信仰はどうなのか」ということを問うてきます。イスラエルの律法に基づいて教えながらも、その根本にある精神をもって各個人に迫ってくるのです。  イエスは最後の晩餐で、イスラエルのための過越...
Published 10/02/22