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かなり間が空いてしまいましたが、森美術館でのアージェント・トーク、後半のQ&Aを公開します。聞き手は森美術館の片岡真実さんです。ここのところ忙しすぎました。 オリジナルの収録日:2011年7月29日、森美術館主催によるアージェント・トークにて。 2/2
Published 05/17/13
Published 05/17/13
今回の「言葉にする」は、森美術館で行ったぼく自身のアーティスト・トークの様子をお送りします。ここ数年の近作について、じっくりと話しています。まずは前半の作品の話をどうぞ。 オリジナルの収録日:2011年7月29日、森美術館主催によるアージェント・トークにて。 1/2
Published 01/31/12
さて、金氏徹平くんとの最終回は、日本の現代美術について。 日本の現状はいい気もするけど、日本の現代美術がこうなったらいいってありますか、金氏くん? 話はその後、海外で受け入れられる日本のアートにおよびます。いまでもそれはステレオタイプなものが多くげんなりします。 ではまた次回まで。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 6/6
Published 07/17/11
金氏徹平くんの5回目は美術史についてです。 ぼくらにとって美術史は重要なものです。そこには先輩たちの苦闘がきざまれているわけですから。 金氏くんはこのなかでひとりひとりがそれぞれの美術史を持てばいいという話をしています。そのとおりですね、過去の作品にはさまざまなヒントが転がっています。ぼくらはそれを繋ぐことで自らを律することができるのかもしれません。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 5/6
Published 07/17/11
金氏徹平くんはいま、京都市立芸術大学の常勤講師をしています。この四回目ではそんな美術大学での教育について話してもらいました。 教育になにができるのか。金氏くんなりの教育方針とはどういうものでしょうか。それはひとつには環境を作ることであると。全員が作家になるわけではないので、それを前提とした上で、多様性を認め全員正解で全員不正解という状況を作ることが大切だと話しています。なかなか示唆的ですね。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 4/6
Published 07/17/11
金氏徹平くんの三回目、今回は制作の話です。 最初に岡崎乾二郎さんと松浦寿夫さんによる『絵画の準備を!』(朝日出版社、2005年)をきっかけに話しをはじめています。イメージが先か、アイデアが先か。マチスとアンドレ・マッソンを軸に、制作をめぐって話はつづきます。 金氏くんは制作のルールをまず決め、そのルールを厳密に守ることで生じるきしみが重要だと話しています。これはおそらくあらゆるジャンルの制作において重要な意見ですね。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 3/6
Published 07/06/11
金氏徹平くんの二回目。引き続き映画の話をしています。 ドキュメンタリーって気になるんですが、即興的な演出によるフィクションもある意味では役者の行為のドキュメントですよね。 ぼくがなかで話しているのは諏訪敦彦さんによる「mother」という映画です。哲朗とアキという同棲中のふたりのもとへ、哲朗の元妻からの連絡がはいります。8歳の息子を預かってほしい。これによって急ごしらえの家族による共同生活がはじまります。その三人の機微を即興演出により描いていく。そんな映画です。おすすめですよ。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 2/6
Published 07/06/11
今回はアーティストの金氏徹平さんをお迎えしてお送りします。 たまたまロッテルダムの展覧会(Making is Thinking@ Witte de With)に一緒に参加する機会があって、時間をみつけてもらってホテルで収録しました。 今回は映画の話、制作の話、教育、美術史、日本とかなり多岐にわたっています。いつものように飲みながらなのでかなりだらけてますが。 一回目は映画の話。 ぼくがたまたまロッテルダムで「ノルウェイの森」を見たので、それを巡りつつ話をしてます。ちなみに金氏くんの子どものときの夢が映画監督だったようです。  映画製作って部外者が参入して失敗する例がたくさんあります。ではどうすればいいのでしょうか。なにかぼくらなりにできる方法論はないのか。ぼくらのいつもの制作方法をどのように映画に移植できるのか、そんな話です。 オリジナルの収録日:2011年1月21日夜 1/6
Published 07/06/11
齋木克裕さんの最終回は「アーティスト・イニシアティブ」について話しました。 アーティスト主導でできることもたくさんあると思います。そうした小さな声が複数の場所から起きることによってぼくたちのシーンは豊かになると、ぼくは思います。アートというシステムはどん欲にそうやって育ってきたとも言えます。周縁を取り込むことで大きくなってきた。なら、結局のところぼくらはそれを単に無視するのではなく、友好的につき合っていくべきなのかもしれません。そのためにもひとつの声に流されないこと。 齋木さんがはじめている「アートマラソン」は、ブログなどの既存のネットワークを利用し、アーティストだけが参加できる、クローズドで批評的な場所を確保しようとしてます。年間100作品を目指してアップロードし、それぞれがそれぞれに対してああだこうだと言い合う場。ぼくは残念ながら挫折しちゃっいましたけど。 ぼくが会話の中でうまく名前を言えていないアーティストはGeoffrey Farmer http://www.catrionajeffries.com/b_g_farmer_works.html Billy...
Published 05/04/11
引き続き齋木克裕さんの回、ここからは自宅に戻って二つ目のトピック「ニューヨークと東京の違い」について話しています。 齋木さんは2003年からNYに住んでいるのでもう8年になりますね。はたしてアーティストとしてNYに住むってどんな感じなんでしょうか。ニューヨークはアートの中心なんでしょうか、NYと東京の差ってあるんでしょうか。 ぼくらはどうしてもシステム・制度に対応してしてまう。だからこそ自分たちでなにか別の(オルタナティブな)行動をすることが必要なのかもしれない。 英語が世界のアートのとい共通言語として機能しています。ぼくら日本人は日本語という辺境の言葉を話し、グローバルな世界との関係の中で自らの立場を計ってきました。でもそれはネガティブなことなのでしょうか。 オリジナルの収録日:2010年11月5日夜 3/4
Published 05/04/11
前回に引き続き、NY在住のアーティスト、齋木克裕さんを迎えてお送りします。 カフェでの話の続きです。前回と合わせてお聞きください。 オリジナルの収録日:2010年11月5日夜 2/4
Published 04/23/11
だらだらと日々すごすうちに、ずいぶんと更新が滞ってしまいました。 今回はNY在住のアーティスト、齋木克裕さんを迎えてお送りします。齋木さんがどのような作品を作っているのかは彼のwebsiteをみてもらうとして、今回ぼくはNYの齋木さんの自宅を訪ね、次の三つのことについて話してきました。 まずひとつ目は、「写真という作品のあり方」、ふたつ目は「ニューヨークと東京の違いについて」、三つ目は「アーティスト・イニシアティブについて」 というわけで一回目は「写真」という作品のあり方について。 「写真を使って世界を組み替える」と齋木さんは言っていますが、それはどういうことを指しているのでしょう。 ちなみに録音をカフェで行ったため背景のノイズがけっこううるさいかもです。ご了承ください。 オリジナルの収録日:2010年11月4日昼 1/4
Published 04/18/11
最後はこのあと遠藤くんがひかえている曽根裕さんの個展の話。いい作品をつくろうという意志が、社会性に繋がり、歴史に繋がる。作品って本来そういうものであり、それをシンプルに目指すことがアーティストであると遠藤くんは語ります。 そうですね、ぼくらは右往左往しながらも作品の制作にしがみついて、逃げずに作りつづけていく。そうしたあたり前の態度を肯定するこうした発言には勇気づけられます。そんな話の詰まっている今回、記録できてほんとうによかった。 それではまた次回。 オリジナルの収録日:2010年4月3日夜 5/5
Published 07/18/10
パーマネントなものとはなにか?作品そのものが美術館にコレクションされ、置かれている状況をパーマネントなものと呼ぶこともできるけど、作品を通して共有されたアイデアがひとのなかに残っていくことをもパーマネントなものと呼べるんじゃないか。アイデアの共有による連鎖。遠藤くんが言うようにそれこそが美術館とは違う時間について考えることにも繋がっていく。 作品に内在する時間に興味があるからこそ、彫刻とパフォーマンスに興味を持つと遠藤くんは言います。そこに複雑な人間のあり方=これを彼は「コンセプチュアリズム」と呼び、その二つの表現に覆い被さっていると。 オリジナルの収録日:2010年4月3日夜 4/5
Published 07/17/10
アーティストとキュレイターとの関係のことをぼくが振ったら、作品に流れている時間にどうアプローチするかってことに興味があると遠藤くんは言います。作品の持つ独特の時間性、それはけっして通常のシステム、美術館の時間には合わないのかもしれない。それならばその「別の時間」について考えてみることが必要である。アーティストが制作のなかで獲得する独特の時間、それをいかにキュレーションするのか、遠藤くんの問いはこうして作品を通して結果的にアーティストに接続されていきます。 遠藤くんがここ数年で個展を企画したアーティストは以下の三人。冨井大裕、橋本聡、曽根裕。 オリジナルの収録日:2010年4月3日夜 3/5
Published 07/06/10
二回目セッションでも引き続きレジデンスでのアーティストの生活について。 こんな感じでゆったりと考えてくれているディレクターっていいですね。大概はなにか結果を求められたり、せかされたり、つらいときもあるので。 そして東京とアーカスのある茨城という二つの地域を行き来しながら遠藤くんが感じたこと、大都市の問題。彼が直面していた問題は、ぼくらの直面していることでもあります。 オリジナルの収録日:2010年4月3日夜 2/5
Published 07/05/10
だいぶご無沙汰してしまいました、「言葉にする」第7回のゲストはキュレイターの遠藤水城さんです。 ぼくがアメリカに来て一年がすぎて、この間、海外のいくつかの場所で展覧会をしながら、社会とアート関係のことをいつも考えさせられてきました。自分の作品がまったく別の文脈のなかに置かれたとき、たとえば広州とトロントではその作品はどのように受け取られるのか、ぼく自身はどのようなアーティストとしてあるべきなのか。非西欧のアーティストが社会的役割、文化的コンテクストを求められるのはなぜか?遠藤さんの解釈をここでは聞くことができます。 そこから遠藤さんがディレクターとして過ごしたアーカスのこと、ギャラリーや美術館とは違うアーティスト・イン・レジデンス。そこでできること、できないこと、そしてやるべきこと。興味深い話が凝縮されています。 オリジナルの収録日:2010年4月3日夜 1/5
Published 06/22/10
最後のセッションではなぜ絵画を選んだのかというと問いから出発してます。 絵画は無理だろうと思われているからこそ、そこに期待がないからこそ、逆にニュートラルにアクセスできるメディアとしてを選んだ、と南川さんは話しています。ビデオはまだ若いメディアですが、普及率で言えば、同じようなものかもしれませんね。 話のおしまいにはちょっとした新しいプロジェクトの提案をしてます。実現させたいですね。 ではまた次回。 オリジナルの収録日:2010年2月14日夜 5/5
Published 05/03/10
四回目のセッションでは、作品はどこまで理解されるのか、どこまで理解してほしいのか、いやそもそもなにが理解なのか、ということについて話してます。 話の中で触れているテキストや映像は以下。 ・林卓行「〈リアルな芸術〉のありか」『現代芸術論』(武蔵野美術大学出版局、2002) ・Joseph Kosuth "Four Words Four Colors" (1965) ・ボクサーに試合を挑むダダイストはArthur Cravan、伝記はこちら。谷昌親『詩人とボクサー—アルチュール・クラヴァン伝』(青土社、2002年) ・Bas Jan Ader http://www.basjanader.com/ ・ダダの映像作家は、ダニエル・リヒターではなくハンス・リヒター(Hans Richter)でした。 ・ Chris Burden "Shoot" 1971 オリジナルの収録日:2010年2月14日夜 4/5
Published 05/03/10
三回目のセッションでは「最近、気になる絵描きは誰でしょう?」って問いから出発してます。歳が近いアーティストは気になりますよね?僕の場合は絵描きさんよりもコンセプチュアルなアーティストが気になっちゃいます。 途中で触れている1976年生まれ以下のアーティストを集めた本は、"The Younger than Jesus Artist Directory"(Phaidon Press, 2009)です。Ryan Gander, Mario Garcia Torres, Lee Kitについてはググってください。 マーケット主導の時代が終わり、これからどうなるんでしょうか。作品は売れてほしいですけど。 オリジナルの収録日:2010年2月14日夜 3/5
Published 04/26/10
一回目からつづけての収録。制作についての話は続きます。 ・仕上がりの粗雑さ、失敗のテイストを練習する。 ・成功と失敗の差が分からなくなる。 ・絵画とはそもそも裏側のないものである。 話のなかで出てくるマチスのドローイング、これはピカソの間違いでした(pas_pascalさん感謝!)。ハル・フォスター編『視覚論』(平凡社、2000年)のp99に出てきます。 「これらのスケッチブックは、まさしくアニメーション台と同じように作られた。尖った鉛筆による線が、柔らかい厚紙に刻まれる。すると、その輪郭がその下のページに浮き彫りにされ、そのページの輪郭が、今度はさらにその下のページに刻まれる。(中略)ピカソの採用した生産様式は、インスピレーションの絶えざる湧出などではなく、シリーズの機械的複製にほかならない。(中略)ピカソのアイディアの発展を見守っているというよりも、身振りの動きを観察しているような印象をうける。まったく意外にも、パラパラマンガを目の当りにしている感じなのである。」 新聞の挿絵のプロジェクトは出版されています。吉田修一『横道世之介』(毎日新聞社、2009年)。 オリジナルの収録...
Published 04/17/10
第六回目の今回は南川史門さんのスタジオにお邪魔してます。南川さんとは2001年「アートイング」(セゾンアートプログラム、旧牛込柳原町小学校)での展覧会以来の付き合いです。 ぼくはもともとは絵を学ぶために美大に行ったんですが、なんだかんだとしているうちに結局そこからずれていってしまったクチです。でも絵画を見ることは基本的に好きなんですね。興味もある。 このセッションでは、南川さんにとっての絵画とは何かというストレートな話をしています。なぜすべてのモチーフが等距離にあるのか。ぼくが気になるのはそこです。単なるフェティッシュにもよらず、形式的な問題だけによるわけでもない、なにかしらの自由さが見て取れるからです。 オリジナルの収録日:2010年2月14日夜 1/5
Published 04/06/10
「保坂さんとの最終回はぼく自身への疑問?提案?で締めくくられます。ぼくが「世界」というならばそこにはなぜ「他者」がいないのか。ここでぼくはそれに対してうまく答えられてません。課題です。 というわけで三回目の「言葉にする」を終わります。このあとぼくはLAに引っ越すので、ときどきは「ひとり語り」もあるかもしれません。趣旨が変わるけどそのうち英語でもやれたらいいですね。まだまだぼくの英語はひどいですけど。」 と、ここまでが約1年前にぼくが書いていたことです。実際、この間、「世界における他者の問題」はずっとぼくの頭の中にありました。それがどのように作品のなかで展開していったのか、いずれ何らかのかたちで見せることができるといいですね。それではまた。 オリジナルの収録日:2009年1月28日夜
Published 01/26/10
たいへんお待たせしました。保坂健二朗さんとの4回目アップです。1年ぐらいかかってしまいました。ちなみに3、4、5回目のセッションはインターバルなしで録音してますので、もう一度3回目からつづけてお聞き下さい。 美術におけるテキストというものを、ぼくは作者自身についてよりも作品について書かれるべきだって思っていたけど、美術史の世界ではまあそれはあたりまえで、ここが保坂さんらしいと思うけど、その美術史では否定されているアーティストの人生を否定しないこと、「人生か作品」ではなく人生も作品も、両方を抱えることで見えてくることもあるということ。なるほど、そういう視点の転回もありえるはず。 またその辺から「倫理」の話になっていきます(補遺参照)。ぼくたちが直面している基準とはなにかという話でもあります。個人的だけということでもなく、社会的だけということでもなく、ぼくたちに突きつけられている基準とはなんなのでしょうか。ほかのだれでもなく、「美術さん」といっしょに世界に立ち向かうとき見えてくるのかもしれない。 オリジナルの収録日:2009年1月28日夜 補遺: 倫理 社会的には認められないけど従わ...
Published 01/26/10