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房総半島には明治・森永の二大乳業メーカーのルーツがあります。その源流は江戸時代の徳川将軍家が愛した白牛酪というスイーツにいきあたります。平安時代から牧場が設置されてきた房総半島の嶺岡牧。そこが酪農発祥の地となったのは、海底の地形がもたらす“天然のエアコン”のおかげでした。
【出演】Discover EZO(ディスカバー エゾ)代表・伴野卓磨, facebook, instagram, twitter
※内容は諸説あります。厳密な考証は行っておりません。
Published 11/11/24
ミルクは食の産業革命だった!?農業にむいていない荒地でも生産可能な乳製品は人類の活動領域を大きく広げた当時の先端テクノロジーでした!単なる生産手段にとどまらず、移動手段であり、軍事手段ともなった酪農・牧畜は世界の歴史を動かしていきます。西アジアで生まれたミルクはインドで仏教と融合し、仏教伝来とあわせて日本に伝わると、貴族社会を中心に広まっていきました。
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Published 10/14/24
「1000円の壁」に阻まれ、苦境に陥るラーメン業界。そんな中、海外のマーケットで勝負したいという「脱日本マーケット」の風潮が強まっています。文化、風習、水質…様々な困難に立ち向かい、海外にラーメン文化を根付かせることに成功した挑戦者の戦いを紹介します!
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Published 09/10/24
世界で初めてインスタントラーメンを開発した日清食品でしたが、すぐに他社が追随し価格競争に巻き込まれ、経営が悪化。安藤百福社長が社運をかけて開発しようとしたのが、カップラーメンでした。「3分で食べられるようにする」「見た目も鮮やかでラーメンに適した具材を開発する」といった高いハードルを乗り越えて発売されたカップヌードルは食品問屋から相手にされず、自社で販路を開拓する必要に迫られます。
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Published 08/07/24
現在、世界では年間1千億食のカップラーメンが食べられており、その市場規模は約8兆円の上ります。世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を開発した日清食品創業者・安藤百福の波乱万丈のラーメン人生をご紹介します。
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Published 06/19/24
ラーメンという名称はいつ、どうやって生まれた?その答えは大正時代の札幌にあります。クラーク博士以来、国際交流拠点として多様な文化が入り混じった札幌にやってきた中国人料理人の活躍と、彼を暖かく見守り、ラーメンを通じて差別を乗り越えようとした日本人オーナー一家の心温まるエピソードをご紹介します。
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Published 04/07/24
日本で初めてのラーメン店「来々軒」を開いたのは税関職員だった!?明治維新後、横浜にわたってきた中国人労働者が食べていた中華料理はどのように「支那ソバ」として広まった!?明治時代のラーメンを令和に復活させたプロジェクトとは!?
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Published 03/20/24
ラーメンは日本の国民食であり、最も愛されているグルメの一つです。みそ・しお・しょうゆ、豚骨、つけめん、鶏白湯、魚介豚骨、煮干しなど、今なお進化を続けています。
長らく、日本で初めてラーメンを食べたのは水戸黄門こと徳川光圀であるとされてきました。しかし、2017年にこの定説が覆されたのです。ラーメンはどのように生まれ、日本にもたらされたのでしょうか?
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Published 01/26/24
日本に「東洋のシンドラー」と呼ばれる人物が二人います。一人は外交官の杉原千畝。もう一人が終戦時の北部方面軍司令官で陸軍中将の樋口季一郎です。樋口季一郎は、ソ連と満州の国境で立ち往生していた2万人のユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせました。樋口季一郎と親交が深かったのが八紘学園の創立者・栗林元二郎です。植民地の「食料安全保障」に深く関わった二人がジンギスカンのルーツにも関わっていたのです。
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※参考資料:「八紘学園七十年史」
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Published 01/14/24
北海道でジンギスカンをするときの定番の話題の一つがジンギスカンの「スタイル」です。ある人はタレに漬け込んだ肉を焼く「味付き」こそ正当であるといい、またある人は生の肉を焼いたあとでつけダレにつけて食べる「後付け」こそ正しい食べ方だと言い張ります。なぜ「味付き」と「後付け」が生まれたのか、その謎を探ります。
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※参考資料:「八紘学園七十年史」
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Published 11/16/23
昭和7年、大関武蔵山、大の里、関脇天龍ら力士32人が相撲協会の経営改革などを要求して東京市外大井町の中国料理店・春秋園に立てこもる事件が起きました。宴会場で2頭の羊をつぶしてジンギスカンパーティーを開き、気勢を上げた様子が新聞各紙に報道されると、ジンギスカンの物珍しさと相まって大きな話題を呼び、ジンギスカンの知名度は大きく上がり、徐々に普及していきます。
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※参考資料:「現場主義のジンパ学」
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Published 09/25/23
ジンギスカンという料理名には大陸的で、ワイルドで、英雄的なイメージがあります。大正時代、北京の在留邦人がカオヤンロウと呼ばれていた豪快な野外料理に出会い、日本人社会の間に広まり、そこから満州にわたって脱中国化していきます。五族協和のスローガンを体現する「満州国建国記念料理」となるなどジンギスカンの名称に関わる諸問題を探ります。
Published 08/16/23
ジンギスカンのルーツは中国料理のカオヤンロウ(烤羊肉)と言われています。カオヤンロウは、戦前、北京の日本人の御用達だった正陽楼というお店の名物料理でした。大正2年に南満州鉄道総裁の中村是公が北京出張の際にこの料理に出会い、満州へ持ち帰ったことで満州の日本人の名物料理として広まっていきました。大正、昭和初期にかけて北京や満州でジンギスカンを味わった日本人が帰国後、それぞれの土地にジンギスカンを持ち帰り、同時多発的に国内でもジンギスカンが広がっていきます。
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Published 07/30/23
ジンギスカンの普及のきっかけを作ったのが大久保利通です。富国強兵政策の推進者であった大久保利通は、来たるべきロシア・清などとの戦争を想定し、防寒具として毛織物の国産化を目指します。「交通の便がよく」「牧草が育ちやすい」ことから、千葉県成田市三里塚地区に下総牧羊場が設置され、3,000頭の羊が輸入されました。戦後、三里塚地区は旧満州などからの引き揚げ者が入植し、牧場から払い下げられた羊を飼う農家が集まり、ジンギスカン料理店の開店が相次ぎ、「ジンギスカン街道」と呼ばれるようになりました。その頃、東京国際空港(羽田空港)が輸送力の限界に直面し、新たな国際空港が求められるようになります。「交通の便がよく」「まとまった用地が確保できる場所」として、候補にあがったのが三里塚の牧羊場でした。
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※内容は諸説あります。厳密な考証は行っておりません。
Published 07/03/23
「北海道をアメリカにする!」・・・北海道の開拓を指揮する黒田清隆はとんでもないミッションを掲げ、お雇い外国人を招請します。洋式農業や最新の機械を導入しただけでなく、食事まで和食から洋食に切り替える徹底ぶりで、これをきっかけに西洋野菜、乳製品、ライスカレーが広まっていきました。こうした中で、本格的な羊の導入が始まります。羊を連れてきたのは、お雇い外国人「エドウィン・ダン」。酪農・畜産の専門家で、彼が設立に携わった真駒内牧牛場で学んだ青年が日本の酪農界を作っていきます。
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Published 06/23/23
ケバブ、ラムチョップ、アイリッシュシチュー、ハギス、そしてジンギスカン・・・牛肉・豚肉と異なり、羊肉は宗教的なタブーもなく、世界中で食べられています。ジンギスカンといえば北海道のイメージが強いですが、千葉県の成田、岩手県遠野、山形県の蔵王温泉付近、長野県など一部地域では盛んに食べられています。羊はいつ、どのように日本に伝わり、広がっていったのでしょうか?そのルーツは江戸時代の巣鴨にありました。
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Published 04/28/23
「とりあえず生!」とよく言うように、日本でビールといえば生ビールです!しかし、居酒屋や家庭で手軽に生ビールが飲めるようになったのは、関係者の様々な努力と技術革新があったからに他なりません。冷蔵保管や交通網が整っていなかった時代に北海道から本州へ「非加熱・無濾過」の生ビールの長距離輸送を試みたサッポロビールの失敗と挑戦。サントリー創業者・鳥井信次郎の「やってみなはれ」精神が生み出した生ビール革命。そして、スーパードライが巻き起こしたドライ戦争。生ビール誕生と衰退、そして復活への道のりをご紹介します!
【出演】Discover EZO(ディスカバー エゾ)主宰・伴野卓磨, facebook, instagram, twitter
※参考資料:「佐治敬三と開高健 最強のふたり」「ぷはっとうまい 日本のビール面白ヒストリー 大日本麦酒の誕生」「サッポロビール120年史」
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Published 03/21/23
明治初頭、当時の日本にはビール瓶を作る技術はなく、輸入ビールの空き瓶を回収し、使いまわしていました。東京などの大消費地の近くに工場を構えるキリンやエビスと違い、サッポロビールは慢性的な瓶不足に悩み、輸送コストが大きな負担になっていました。有田焼で有名な有田に磁器製の瓶を作ってもらうも、「イケてない」とまったく売れず。札幌でビール瓶を作ることが最重要課題となったサッポロビールはある台地に目をつけます。そこは、後年「水曜どうでしょう」という伝説的な番組が誕生し、北海道の大スター大泉洋がブレイクするきっかけとなった場所でした。樽・瓶・缶と移り変わったビールの容器にまつわるエトセトラをお聞きください!
【出演】まち歩き団体体験プログラムツアーDiscover EZO(ディスカバー エゾ)主宰・伴野卓磨, facebook, instagram, twitter
※参考資料:「もっと美味しくビールが飲みたい!酒と酒場の耳学問」「ぷはっとうまい 日本のビール面白ヒストリー 大日本麦酒の誕生」「サッポロビール120年史」「残響」
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Published 02/15/23
国内シェア70%を誇り、中国、朝鮮、台湾に工場を持ち「東洋一のビール会社」と讃えられた大日本麦酒。母体となったのはサッポロビール、エビスビール、アサヒビールの三社でした。日露戦争をきっかけに純国産原料を売りに愛国心に訴えることで、悲願のシェアナンバーワンを獲得したサッポロビール。その煽りをくらい、業界3位へ転落したエビスビールは、一発逆転をかけ敵国ロシアへ進出!?競争激化を恐れ、渋沢栄一の取りまとめで誕生した大日本麦酒でしたが、GHQによる財閥解体によりその終焉を迎えました。日本だけでなくアジアのビール産業の基盤を作った大日本麦酒の栄枯盛衰に迫ります。
【出演】体験プログラムツアーDiscover EZO(ディスカバー エゾ)主宰・伴野卓磨, facebook, instagram
※参考資料:「ぷはっとうまい 日本のビール面白ヒストリー 大日本麦酒の誕生」「サッポロビール120年史」「残響」
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Published 01/18/23
缶ビールの価格のうち約4割は税金です。なぜ日本のビール税はこんなに高いのでしょうか?その答えは、日清戦争から太平洋戦争に至る歴史にあります。日清戦争をきっかけにビールを通じたコミュニティと大衆消費社会が生まれました。不平等条約の改正により輸入ビールは駆逐され、100社以上のビール会社が誕生。しかし、日露関係が悪化すると国家予算の4割以上(!)を軍事費が占めるようになり、財源としてビールが標的にされたのです。結果として、70社以上のビール会社が潰れ、サッポロ・アサヒ・エビス・キリンなどの大手の寡占状態が長く続くようになります。
【出演】まち歩き団体Discover EZO(ディスカバー エゾ)主宰・伴野卓磨, facebook, instagram
※内容は諸説あります。厳密な考証は行っておりません。
Published 12/27/22
日本で初めて本格的なラガービールの商業化に成功した開拓使麦酒(現・サッポロビール)の立役者である中川清兵衛と村橋久成。二人とも、幕末に海外へ密航した異色の経歴を持っています。中川清兵衛は、日本人として初めて外国で修行した醸造技師(ビールマイスター)であり、村橋久成は、黒田清隆の直属の部下として戊辰戦争で活躍し、函館戦争では榎本武揚を降伏させます。
この二人の密航者コンビが、日本最古のビールブランド「サッポロビール」を誕生させます。一度は決まっていた東京・青山にビール工場を作る計画を覆した理由とは?なぜ日本でビールといえばラガービールなのか?二人の覚悟が歴史を動かしました。
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※内容は諸説あります。厳密な考証は行っておりません。
Published 11/19/22
キリンビールのキリンのデザインは、頭が龍で、胴体が馬。つまり龍+馬=坂本龍馬がモチーフだった!?サッポロビールの工場は東京の青山に建てられるはずだった!?150年にわたるキリンビールとサッポロビールの争いの原点に迫ります!
幕末の開港とともに始まったビールの夜明け。明治3年に開業したのが、キリンビールの前身たる「スプリング・バレー・ブルワリー」。スプリング(湧き水)・バレー(谷)の名前の通り、横浜山手地区の地形を活かしたビール作りで躍進。共同経営者の内輪もめにより倒産したあとは、幕末に武器商人として活躍したトーマス・グラバーが援助。キリンのデザインの秘密は坂本龍馬にあり!?
一方、日本人の手による、純国産のビール作りを目指したのが開拓使麦酒醸造所(現・サッポロビール)。しかし、工場建設地に予定されていたのは札幌ではなく、青山だった・・・
【出演】まち歩き団体Discover EZO(ディスカバー エゾ)主宰・伴野卓磨, facebook, instagram
※内容は諸説あります。厳密な考証は行っておりません。
Published 10/20/22