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法事に必要な時間は約1時間です。 その内訳はおおよそ読経が25分から30分、法話が10分、そのあとお墓参りをして終了となります。 読経の最後には、般若心経や諸真言など法事に来られる年齢の方々なら比較的なじんでおられるお経を中心に「仏前勤行次第」という手づくりの小冊子を配って、みんなでお唱えします。 こんな方法にしたのは、昭和52年ころ法事にお参りして読経をしているときのことがきっかけでした。 当時は、法事に招かれる親類縁者のほとんどがミカン農家でした。 その人たちがそれぞれ農作業の進み具合や消毒、摘果、実のなり具合などを、法事最中、小声ではあるのですが真剣に話し出して、うるさいのです。 坊主の後ろに座ってただ訳の分からないお経を聞いているのが、ある意味苦痛だったのでしょう。 あるいは小坊主に遠慮は無用でお経の最中であろうとそれほど失礼とは思われなかったのだと思います。 私が至らないことも大きな原因ですが、とにかくうるさいのです。 そこでお経の最中の口封じのため考えたのが、昔ですから、鉄筆を使ったガリ版印刷で「仏前勤行次第」をつくり、みんなで一緒にお唱えすることだ...
Published 06/13/24
法事などで僧侶に出す食事のことを「斎(とき)」といいます。 平成に変わるまでは、本膳・二の膳が一般的で三の膳がつくところもありました。 このうち三の膳は家で待ってる家族のためのものと聞いたことがありますが、現在ではもっぱら幕の内が主流となっています。 お釈迦さまの時代から僧侶に食事を提供することはとても大きな功徳があるとされてきました。 「斎」について、お盆の行事が始まりとされます。 古来インドでは、4月15日から7月15日の雨期の間、僧侶は外出を禁じられ、合同で室内で修行する安居(あんご)という期間がありました。 その安居が明ければ「僧侶たちに斎を施し、供養しなさい」とすすめられたことが斎を施すはじまりであり、お盆の起源となったとあります。 ...
Published 06/06/24
法事には塔婆がつきものです。塔婆、正式には卒塔婆です。 当地ではこの塔婆、亡くなられた方の戒名を書いたものと、施主当家の先祖代々の菩提供養を書いたものの二本が基本的なもので、法事のご先祖が複数霊あればそのぶん塔婆の本数が増えることになります。 塔婆はおうちで読経を済ませたあとみんなで墓参りの際に持参し、墓石の後ろか塔婆立てにさし、故人の供養をするものです。 現在ではこの塔婆、お寺が用意し、法事の依頼があれば前もって書いておいて法事当日に持参するのですが、私が小坊主の頃は、田舎といえども小さな雑貨店があって、そこで当家が必要な本数の塔婆を買い求め、床の間にしつらえられた祭壇の横に墨汁の入った硯とともにその当家が準備していました。 来客が正座し、その衆人環視のなか、法事が始まる前、おもむろに幅7センチ長さ90センチの塔婆を左手で持ち、右手に墨を含ませた筆を持ってサラサラ、サラと格好良く梵字から始まって戒名を書くのですが・・・。 そんなふうにうまくいけばいいのですが、そもそも世間一般には「坊主は字が上手」と間違った(?)常識が流布しているなかで、愚僧は字が汚いことこの...
Published 05/30/24
檀家さんにとって私のような小坊主でも、寺の跡継ぎができた安心感やもの珍しさもあり、法事も新鮮な感じがするとかで、案外歓迎されているように思います。 しかし法事の後、「斎(とき)」とよばれる食事の席につきますが、食事をいただいていて皆さんだんだんお酒が回ってると、法衣を着て上座に座っている坊主であっても、参列者から 「今の若いもんは・・・」という話になることがたびたびあります。 昭和50年ごろ、法事に来る大人の人たちは、戦中戦後の食糧難の時代を乗り越えた人ばかりで、小学校の校庭にまでサツマイモを植えてそれを主食とした世代です。 しかしイモだけでは足らずイモの蔓まで食料にしたという飢えた時代を体験した人の、食べ物に限らず、なによりも物の大切さを話す言葉には大きな説得力がありました。 それに比べて、私は高野山の宿坊で小坊主時代を過ごし、ご馳走と呼べるものは食べられていなかったとはいえ、白いご飯だけはタップリあったし、おかずはなくても空腹になることはありませんでした。 ですからほんとうの空腹やひもじさというものを感じたことがないのです。 そんな私がひもじく辛い時代を生きてき...
Published 05/23/24
親の心子知らず 結局、高校、大学と高野山で過ごし僧侶になる修行は済ませたものの、大学卒業後の進路は寺の跡継ぎではありませんでした。 というのも私が高野山大学で専攻したのは当時新設された社会福祉学科だったため、大学としても社会福祉学科第一期生としてできるだけ多くの卒業生を社会福祉関連に就職先を決定させるという目標を掲げていたのです。 そのためいくつかの施設で実習や研修をおこなったうえで、私は大阪のある介護老人保健施設に就職を決めていました。 しかし、当然ながら父親は私の就職を受け入れず、みずからが役場つとめをしながら住職をしていたことから、自分と同じような役場つとめをするか、または坊主をしながら学校の先生になるか、執拗に兼業をすすめてきたため、かえって反抗し続けた私がいました。 このときには、父親が兼業だったからこそ私たち兄弟3人を育て上げ、大学までいかせることができたのだということを考える余裕などまったくありませんでした。 父親に対する反抗心が、“どうせお寺を継ぐのであれば専業でやっていく”という意地のようなものを私に芽生えさせたのです。 しかし現実はきびしいもので...
Published 05/16/24
私は、坊主には絶対なりたくないと思っていました。 男兄弟3人の末っ子で、普通高校に行き、普通大学に行き、普通のサラリーマンになると思っていたのです。 しかし兄2人が早々に普通高校、県外の大学に行き、普通のサラリーマンになったため、あわてた父親は私を高野山高校に入れようと中学校の先生に協力を求め、説得にかかったのです。 しかし、私の坊主への拒否反応はその話があった中学3年生の2学期の終わりごろから現れ、その後のテストというテストはすべて白紙で提出し、しまいには担任から怒られるだけではなく、職員室に連れていかれた上、職員会議の席ですべての先生に土下座をさせられる羽目と遭いました。 この時のみじめさと悲しさは、私の脳裏から離れることはありませんでした。 しかし、結局、高野山高校を受験することになり、入学試験は1泊2日で高野山の宿坊に宿泊することになっていて、私の説得にあたった先生が付き添ってくれることになりました。 この期に及んでもまだ受験を受け入れることができず、高野山行きの南海電車に乗ったときから体が拒否反応を起こし、電車のなかでなんども吐いてしまったほどです。 あと...
Published 05/09/24
はじめに しかたなくいやいや寺の後を継ぎ、必死で駈けぬけた40年、いや50年でした。 最初は、坊主をするかぎりは専業でという意地がかえって自分を追いつめ、毎日もがいていたように思います。 しかし、少し前向きに歩み始めて十年ほどたつと不思議なもので、一から始めた日行参りも軌道にのり、習いはじめたご詠歌はもともと学生時代には声明が得意だったこともあって習得が早く、師範を許され、習いたいという生徒も出てました。最盛期には七カ所で教室ができるほどになりました。 その上、独学で練習していた津軽三味線も習いたいという生徒ができ、三味線森田会として三つの教室をもつことになったのです。 そのころは週のうち5日はご詠歌と三味線の教室で教えていました。 また、ある私立の進学高校から非常勤講師で招かれ、先生として七年勤務し、さらに35歳のときには和歌山県内でも最年少の公民館長を拝命することになったのです。 そして公民館長を10年つとめると、役場からも声がかかり、これも非常勤で教育委員会に勤務することになりました。 難病の次女が五歳で亡くなったことから、患者会の全国副代表をつとめることに...
Published 05/02/24
いつもお聴きいただきありがとうございます 5月3日(金)からはシーズン5に入ります 今度の本は2015年に出版した「田舎坊主の七転八倒」という本です この本の内容は、私個人のいわばカミングアウトバージョンです 引き続きぜひお聴きください --- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/pgsvmgddld/message
Published 04/30/24
人は必ず、あっちへ行く。 あっちはとは、だれひとり帰ってきて現地報告したことのないところだ。 そんなことは分かっていても、自分はまだあっちへは行かないと多くの人は思っている。 どちらかというとあのお年寄りが先で、自分はまだ。 あの病院通いばかりしている人が先で自分はまだ。 そう思っている。  「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」という句がある。 この句には二つの意味を含んでいる。 ひとつは、 「海水の中で水に濡れなければ仕事にならない海女でさえ、時雨に濡れて体調を崩すことのないように、死を説き、死を厭わない僧である私でもほんとうの悟りを得て仏さまのところにいくまでは体調に配慮して薬も飲むんだよ。」という意味だ。 ふたつは、 ...
Published 04/25/24
私が町役場で社会同和教育指導員という辞令をいただいていた1994年11月のことである。 人権週間にあわせて人権教育講演会を開催することになった。担当者はそれぞれ意見を出して講演者の選定に当たった。 とりわけ人権の話となれば聴衆者も少なく、ときには難解な講義形式で話される先生もあることから町民から敬遠されることが多かったのだ。 私は予算の関係もあるが、人権と言えども楽しく話してくれる人はいないかと考え、最終的にタレントのレオナルド熊さんに決めたのである。 レオナルド熊さんといえば、1980年ごろ、いま名脇役の渋い俳優として活躍する石倉三郎氏とお笑いコンビを組んで大活躍し、ニッカポッカのズボンに腹巻き、チョビ髭をつけた格好でおおいに笑わせてくれた。 レオナルド熊さんに、「講演テーマを何にしましょうか」と聞いたところ、「いまを生きる」にして下さいといわれた。 失礼だと思ったがもう一度聞き直した。テレビに出てくる熊さんと「いまを生きる」がピンと結びつかなかったのだ。やはり、 「『いまを生きる』でお願いします」と、念を押された。 このテーマについては講演会の当日、控え室で次...
Published 04/18/24
私たちは食事の前に「いただきます」、食後は「ご馳走さまです」という。 ある中学校の講演で「いただきますはだれに言いますか?」という質問をした。 子どもたちに「きのう何を食べましたか?」と聞くと、「おでん」と答えてくれた。 「おでんの中の何を食べましたか?」 と聞くと、「たまご、ダイコン、牛すじ」と答えてくれた。 私たちは誰かのために働いたり、誰かの役に立つ作業をすれば報酬がいただける。会社に行って働けばお給料がいただける。 でも、たまごやダイコンや牛すじを食べればあなたの栄養となりエネルギー となり命になるのに、鶏や牛やだいこんに報酬は渡らない。 お父さんが働いたお給料で、お母さんが鶏や牛やダイコンなどのお買い物をしてお金を支払っても、それはお店や卸業者や生産者に手渡されて、鶏や牛やだいこんには渡らない。 それどころか牛が解体処理場にいくとき涙を流すといい、鶏は狭いケージの中を精一杯羽ばたいて出ようとしないという。 すでに彼らは殺されることを悟っているのだ。 ダイコンは花を咲かせ種を蓄えるまで、大地に精いっぱい根を張ってなかなか抜かれまいとふんばるのだ。 ...
Published 04/11/24
学生のころ中村久子さんの『こころの手足』(春秋社)を読んだ。 中村久子さんは幼いころの凍傷が原因で脱疽(体組織が壊死していくこと)となり両手両足を切断することになる。 母の深い愛情で育てられ、残った短い手で編み物もできるまでになった。 成人したころ実母は再婚したが、再婚相手の継父に興行師に身売りされてしまうのだ。 日々の生活は、両手両足のない姿を見世物として舞台に上がらされ、母から教わった生きる手立ての裁縫や編み物などは哀しい哉、皮肉にも見世物として役に立ったのである。 自分の体は仏からいただいたもので、なにひとつ恨んでいないと語り、むしろ手足のない不自由な体であるからこそ強く生きることができたと述懐されている。 『こころの手足』のなかに次のような詩がある。 さわやかな 秋の朝  「タオル 取ってちょうだい」  「おーい」と答える   良人(おっと)がある  「ハーイ」という   娘がおる   歯をみがく   義歯の取り外し   かおを洗う   短いけれど   指のない   まるい   つよい手が   何でもしてくれる   断端(...
Published 04/04/24
田舎坊主の寺、不動寺が建立されたのは、慶長六年(1601年)開山と伝えられている。 1700年頃に本堂が焼失し、その後、宝永三年(1706年)、現在の本堂が再建された。この年は、西国霊場で有名な粉河寺の山門が建立される前年のことになる。 不動寺はその名の通り本尊は不動明王だ。 正式本尊名は「大日大聖不動明王」といい、真言宗の本尊である「大日如来」の化身といわれていて、続日本書記には高名な仏師「小野篁(おののたかむら)作」と記されている。 本来、不動明王を本尊とする本堂の内陣には「護摩壇」が据えられていて、もちろん不動寺にもあるのだが、残念ながら護摩を焚くことができなかった。 というのは、今から約70年前、護摩を焚く鉄製釜が大戦時中に強制的に供出され、現在まで釜のない状態が続いていたのだ。 ...
Published 03/28/24
特別養護老健施設でヘルパーとして働いていた娘が2003年1月、突然「私、高野山尼僧学院に行く」といって剃髪得度した。 本人にとっては突然ではなかったのかも知れないが、娘一人しかいない私にとってこの寺は私の代で最後と、腹をくくっていたのでほんとうに驚いた。 娘は得度に先立って剃髪をしたのだが、案外「つるつる頭」に落胆はしていないようすだった。そのことがかえって私の胸を熱くした。 しかし高野山での一年間がほんとうにつらかったであろうことは、面会に行ったとき、しもやけで両手両足両耳がまっ赤に腫れているのをみて容易に想像できた。 一年間の尼僧修行すべて卒業成満し、2004年から自坊での日行や法事などを手助けしてくれるようになった。 その娘は配管職人の在家に嫁ぎながらも寺の手伝いを続けていたが、ありがたいことにやがて娘の旦那さんも出家という重い決断をしてくれたのだ。 自坊不動寺は私の代で縁者が住職を務めることはないと思っていたのが、今は二人も副住職ができたことになる。 しかも寺の近くに新居を構えてくれるというのだから、これはもうありがたいの一言に尽きるのだ。 そこで、田舎坊...
Published 03/21/24
私が1951年に生を受けてから、60歳の還暦になるまで、日本は幾多の自然災害に見舞われてきた。 私が記憶しているものだけでも、次のようなものがある。 1983年、日本海中部地震(秋田,青森)、 1990年、雲仙岳噴火(長崎)、 1993年、北海道南西沖地震(北海道)、 1995年、阪神・淡路大震災(兵庫)、 2008年、岩手・宮城内陸地震(東北)。 そして2011年3月11日に東日本大震災が発生した。 大地震と巨大津波はそれら全てを根こそぎ奪ってしまった。努力の末、得てきたもの全てを、です。 家を流され、職場を流され、生活の道具を流され、ふるさとを流され、家族を流され、すべてが無に帰した。 助かった人は文字どおり「命からがら着の身着のまま」で、残ったのは命だけという人がほとんどなのだ。 大震災の前日、新築に引っ越したという若いご夫婦が、コンクリートの基礎だけ残ったその場所を指さしながら、 「ここが両親の部屋だった」と、泣き崩れながらも、「家族がたすかっただけでもありがたい」と、話していたのが印象的だった。 この大震災において奇跡的に助かった人たち...
Published 03/14/24
2010年の12月クリスマスのころ、ある児童施設にランドセルが送られ、「伊達直人からの善意の贈り物」としてメディアに大きく取り上げられた。 その後、全国各地で次々と同様の施設に贈りものが届くようになり、 「日本人も捨てたものじゃない」 「新たな寄付の形態が現れた」 など、巷間喧しく論じられるようになった。 「伊達直人」名で届けられた贈りものは、2011年1月には物品や金銭を含め47都道府県すべてに同様の寄付が寄せられたそうだ。 メディアはこれを「タイガーマスク現象」と名付けた。 最近、駅前や繁華街などで街頭募金が行われているのをよく見かけるようになったが、それでも日本の寄付文化はあまり成熟しているとは言えないだろう。 ...
Published 03/07/24
「布施」には財施と無財施がある。 ミャンマーなど上座部仏教で僧侶の托鉢に入れるものはいわゆる財施である。生活必需品であったり、お金であったり、食品類などだ。まさにこれはインドで経験した「バクシーシ(喜捨)」で、人々は喜んで布施し捨てているのだ。鉢に入れたもので喜んでもらえると思い、そのことで心が満たされ平安になり、その功徳により後生さえも幸せになれると考えられているのだ。 しかし財施できるということは、捨てるものがあるからこそであって、なかにはそれすらない人たちだって多くいる。 はたしてそのような人たちにそれに代わる功徳があるのだろうか。 仏教ではすべての人たちに、もちろん財施できない人たちにも功徳ある布施の方法を説いている。 それが「無財施」なのだ。 一般的に「無財の七施」としてよく知られているのがこれだ。 「眼施」いかなる人にも温かいまなざしを忘れず接すること 「和顔施」なごやかな笑顔で接すること 「言辞施」相手を思いやる言葉で満ちていること 「身施」あなたの力でつねに人の手助けをすること 「心施」うれしいときも悲しいときも相手の心に寄り添うこと ...
Published 02/29/24
むかし、中井貴一が主演した『ビルマの竪琴』という映画を見た。 ビルマ(現在のミャンマー)で戦死していった戦友を供養するため、現地で出家した水島上等兵が日本に帰還する部隊の戦友たちにビルマの竪琴で『埴生の宿』を奏でるという内容だと記憶している。 そのなかでのある場面を印象的に覚えているのだ。 その場面は正確ではないと思うが、垣根越しに日本兵が托鉢を持ったビルマの僧にお布施(お金か物か定かではないが)を鉢に入れたときに、日本兵が「この国の坊主はお礼を言わぬ」という主旨のセリフがあった。 托鉢は本来、生産活動を行わない僧が毎日街を歩いて信者から米やお金などの生活必需品を鉢の中に入れてもらうことだ。 とくに現在でも東南アジアの上座部仏教とよばれる仏教圏では日常的に行われている。 この托鉢の鉢は「捨て鉢」であり、信者など人々は「捨てさせてもらっている」のだ。 僧の方は「捨てさせてあげている」ので、お礼を言うのは僧ではなく鉢に物を入れる方なのだ。 僧に供養することが最高の功徳と考えられているのだから「捨てさせてもらう」ことによって幸せな心になれるのである。 僧にとって生...
Published 02/22/24
ある檀家さんの奥さまからお手紙をいただいた。 内容は、三回忌に嫁ぎ先の両親のお墓を建てることをご主人と相談して決め、墓地を整え法事を済ませたとき、いろいろなことが脳裏をめぐったことなどその日の気持ちがしたためられていた。 とにかくお墓を建てることができて嬉しかったこと。そしてとてもありがたく思ったこと。自宅で90歳の天寿を全うし息をひきとった義母に添い寝したこと。 体の冷たさを感じながら実母よりはるかに多くの時間をともにし、味わった辛さ、悲しさ、喜び、優しさ。 いまもそのときの義母の冷たさを思い出し、はかなさや無常を実感しながら「今日一日無事に過ごさせてもらってありがとうございました」といつも言えるよう、優しい気持ちで暮らしたいと心に刻んだこと。しかもそれは不思議なやすらぎだったこと。 そのことをどうしても田舎坊主に聞いてもらいたいと、美しい字で書かれていた。 さらには実家の父親の死、出産途中で亡くなって逝ったわが子、そして兄、義姉など愛しい人たちとの別れの時の気持をダブらせながら、拙書「田舎坊主の愛別離苦」を読んだことが書かれていた。 生きているということは多くの...
Published 02/15/24
ある人がいってたのだが、「きれい」と「美しい」は違うそうだ。 きれいは表面上見た目だけであって、美しいは内面的なものをいうのだそうだ。 たしかに「わあーきれい!」では内面まで判断していないような気がする。 しかしこの「きれい」や「汚い」についても勝手な判断を加えているのが人間なのだと思う。 たとえば、一度オシッコを入れられたグラスは、どんなにたくさんの洗剤を使って洗われたうえに煮沸を施しても、オシッコを入れられたことを知ってしまうとなかなか気持ちよくそれにビールをついで飲めない。というか拒否してしまう。 たとえそれが完全滅菌され電子顕微鏡で菌が見受けられないほどきれいでもだ。 反面、自分の手にオシッコがかかっても石けんで洗えば「煮沸」をしなくても、その手を使っておにぎりをつかんで食べることができる。 電子顕微鏡的には雑菌満載の手でも自分の手はきれいと思っている。 ...
Published 02/08/24
最近、ものの片付けや人生の片付けについてたくさんの書籍が出版されている。 タンスの中の衣類の整理や台所の収納からはじまって、財産の整理の仕方、自分の葬儀の段取りまで、片付けなければならないことは多岐にわたるようだ。   私も還暦を過ぎたころから少しずつ身のまわりを片付けはじめている。 初歩の「死に仕度」でもある。 私の父は大好きなお風呂のなかで心不全で急死した。(このことについては「田舎坊主の愛別離苦」にも詳しく書いた) 私も同じ心疾患を持っている。しかも35年間薬漬けのからだでもある。病気に限らずいつなんどき無常の風に連れて行かれるとも限らない。 そう考え、そろそろ片付けはじめなければと思ったのだ。 いまのところ私が片付けているのはまさに身のまわりのものだ。 片付けの基準は、次の4点である。  1.必要ないものは捨てる。 2.やがて必要になるかも知れないと思われるものも捨てる。 3.捨てるときは「おもいっきり」捨てる。  4.死んでからも必要かと考えてみる。 ...
Published 02/01/24
私、田舎坊主の誕生日は卯(うさぎ)年の2月22日。 平成22年2月22日と並びのいい59歳も過ぎ、今は還暦も過ぎてしまった。 還暦は文字どおり暦が還ると書く。いわば「もう一度、再スタート」ということなのか。 子どものころ、40歳を過ぎた大人を見て、 「ええ年のおっさんやなあ」と思ったものだ。 そのころは、自分が40歳になるのは、はるかはるか遠い将来のことのように思っていた。 たしかに年月の経過も、今よりずっと遅かったように思うのだが、ところが日々の経過は「加速」されることに気がつきだした。 つまり同じ速さで経過しないのだ。 実際にはそんなことはあり得ないのだが、確かに加速されて日々は過ぎ去っていく。 そのことが分かったのは「ええ年のおっさんやなあ」と思った40歳を過ぎたころからだ。つまり厄年ころからということになる。 人間の生理活動というか生命活動はそのころが頂点なのかも分からない。だからあとは下り坂を転げ落ちるのみ。 おのずと地球上では下りは加速されるので、当然日々の経過は速くなるのだ。 そうあきらめかけたころに還暦がやってくる。 昔は赤いじんべ(...
Published 01/25/24
こんな笑い話がある。  ある男性の人生は「金、銭、カネ、ゼニ」の一生だった。 若くして大金持ちになることを望み、ただただ金儲けのために必死に働き続けたのだ。 ついには周囲の人々から「金の亡者」「あの人はカネしか頭にない」などと言われるようになってしまった。 しかしこの金の亡者も寄る年波には勝てず、自分が動けなくなってきた頃に、儲けたお金も、手に入れた高価な品々もすべてこの世に残していかなければならないことに気づいたのだ。 何一つとして手に握りしめていくことができないことにやっと気づいたのだ。 そこで家族に、「最期に、金の亡者と呼ばれたわしにもみんなに伝えたいことがある」といって、家族にこういい遺した。 「わしが死んだら棺には両脇に手が出るように穴を開けてくれ。そこからわしの手を出してくれ。そうしてみんなに伝えたいのじゃ。 わしは金の亡者とまで呼ばれたが、これこのとおり、何も手にしないであの世に行く。 生きているうちに人に喜ばれるようなカネの使い方をしてほしいのじゃ。元気なころからこれに気づいて、人のために使ってくればよかった。 ...
Published 01/18/24
2020年のFMはしもとで放送された「ラジオ寺子屋高野山」という番組での私どものインタビューです。 難病と関わるようになった田舎坊主の話を娘の純令とともに語っています。 インタビュアーは高野山青巌寺ご住職高井知弘様です。
Published 01/11/24
2020年のFMはしもとで放送された「ラジオ寺子屋高野山」という番組での私どものインタビューです。 坊主になりたくなかった田舎坊主のホンネを娘の純令とともに語っています。 インタビュアーは高野山青巌寺ご住職高井知弘様です。
Published 01/04/24